No.18

特集「エコノミーとエコロジーを考える」

 

 1月の終わりに経産省の助成と埼玉県や商工会議所などの後援で中小企業家の団体が「中小企業・元気まつり」を開催した。会場はさいたま新都心で、タイムリーにマイクロソフト社の新OSの発売日も重なって、IT活用の経営革新がテーマであった。そこで戦略デザイン研究所の水口健次さんが「中小企業だからできる勝負」というメイン講演を行った。その現状の日本を分析する話からのヒントを交じえて 、また、元アメリカ合衆国副大統領ゴアさんの地球環境の危機を説く『不都合な真実』を加えて、経済の動向と地球環境の問題を考えてみよう。



 水口さんの講演での話は大きく分けて、経済活動が成り立つ「消費」と「企業(製造や販売)」の二つの側面からの変化を分析した。その両面において社会的な「崩壊の構造」が将来的に日本を暗くしていると言うのが結論のようだ。
 まず「企業体の存在と繁栄」とは全て「コスト(経費)」にあるという。企業活動の基本は売り上げからコストを引いた利益があるから 持続・継続性が確保される。これは実は私企業も公共も同じである。組織には全てコストがかかる訳で、「消費者が負担しないコストが出始めた企業はつぶれる」と言うのである。問題は「コスト」の考え方で、組織が大きくなったり 、公共の要素があると見えにくいが、コストは消費者が負担する「価格」に表現される。 ところが現実には価格ととコストの乖離が激しくなっている。実例として薄型液晶を上げて、膨大な研究開発費をかけた商品がわずか6ヶ月で価格が30%ダウンする過当競争の現状を教える。現在、コストを度外してあらゆる商品の単価ダウンが行われていることを示し 、「この現実を痛みをもって理解しているのか?」と問う。 短期的な視点において、コストが価格を越えていて、消費者が負っていない現実がある。そのツケは現在は働くものに来ているが、当然、いつかは消費者にも回ってくることは間違いない。安ければいいのか、目先の価格差での過当競争は何をもたらすのだろうか。
 ここで気がつかされたのは、あらゆる商品の中には、直接計算されるコストの他に外部不経済的な、社会的、環境的コストを誰が負担しているのか、という点ではないだろうか。この点はあとでまとめて考えることにしよう。
 


 市民活動で経済的な話が出ると、したり顔で「企業は営利だ」「市民活動は非営利だ」「ボランティアだ」という人が多い。 税金は無尽蔵に出てくると錯覚している人もいる。昔、兵隊は一千五厘の葉書でいくらでも集められると言った将軍がいたが、そんな感覚で税金を集めろと言う政治家もいる。中には「非営利」と「無償」と勘違いしている NPO法人の経営者もいる。学校の先生や議員さんにも自分たち自身のコスト意識がない方も多い。自分は聖職で霞を食っているとばかりに民間事業者を軽んじる言い方をする人たちだ。 営利であれ、非営利であれコスト意識は重要だ。NPOとは「ノンプロフィット=利益を再投資する組織」という意味であって、自治体であっても、あるだけ使い切れというのでは現代は生き残れない。 単年主義で予算消化できればいい経営が出来る訳がない。
 「民営」とか「公設」という言葉もあり、「公営企業」という言い方もあるが、社会事業を経営する組織には「社団法人」「財団法人」「社会福祉法人」といった公益法人や特殊法人とか言われるものもある。むしろ、有限会社であれ株式会社であれ、あるいは NPO法人であれ、いいこともすれば悪いこともできる訳で、問題は創業の理念や、「業」を「企てる」目的や目標、やり方に違いが出てくるのではないだろうか。小泉内閣はだからかなりの部分で現実主義的に、学校法人でなく株式会社が学校や大学、病院を経営することを自由化しようとした。まさに福沢諭吉の「実学」の考え方を推し進めた感がある。確かに民間企業の多くは、最終目的を「利益」を得るために企業を「経営」している。 本来の株式会社は利益を株主に還元する。大手企業は機関投資家にしか顔が向いていないのは事実だ。しかし、「利益」が資金、あるいは金銭的に難しい場合でも、社会的評価や地域からの信頼のために経営を行う場合も実際には多い。 京都大学大学院の岡田先生は、中小企業重視の地域主義と地域内再投資論が地域の活性化、生き残りには重要だと言う。日本そのものが沈没したり、地球が破壊されては自分たちも生き残れないのだ。
 企業はその意味で等しく「社会的公器」であらねばならないし、そのための商法や会社法があり、同じ地球上に存在する組織として温暖化防止の義務を分け合い、企業ガバナンス(統治)、コンプライアンス(法令順守)やCSR(企業の社会的責任)論が取りざたされているのが現代だ。また、「新しい公共」概念や「公共経営」が話題になり、市長は殿様ではなく、シティマネージャー(街の管理者・経営者=社長)だという考え方も広まっている。行政は集めた税金の再分配という仕組みで経営されてきたが、その分配システムの無駄や非効率が問題になってもいる。この特集で 、税金を使うだけの市民活動ではなく、財政を支える企業市民の重要性を何回か強調したが、単純な税金上でも企業の発展なくして地域経済の発展はないし、当然地域社会の発展や活性化も危うく、夕張でなくともこれからの公共経営はすぐに行き詰ることを忘れてはならない。

 さて、企業の基本要素は「人・金・物」にあるというが、商品が「物」のコスト問題とすると、次に「人」の問題があげられる。企業から見ればマーケティングの価値は「顧客満足」にあり、4つの「P」(プロダクト=生産・プライス=価格・プレイス=場所・プロモーション=宣伝告知)に集約される。現在の企業は「クレームの巣」だそうで、 この全てに課題を抱えている。今や現場の人的クオリティ(質)の低さが大問題になりつつあるのはニュースにもなっている。団塊世代のベテラン退職の影響は、工場や鉄道・電話などインフラから刑事や警察官の 捜査能力の低下までが危惧されている。企業の窓口から居酒屋、コンビニまで、直接のお客との接点はクレームの嵐だ。これはもちろん企業が雇用する従業員に原因の大きなものはある。 しかし、崩壊の構造は、若い人がいない(日本人がいない?)、しつけられない、マインドがない、マニュアルが教えにくい、社員(パートやバイトまで)を減らす、という企業の存在の危機にまで来ている。 少子高齢化、学校教育の現状、外国人労働者問題など課題は山積している。銀行など一部を除いて、人件費コストを抑えた大企業のように好景気は見せかけで、大手チェーンストアも実態はコスト割れで利益の出ない時代なのである。危うい組織は顧客や従業員からのクレームを無視し、なんとかごまかしているだけだ。その最たるものが独占企業の官庁や行政、自治体組織ではないだろうか。このままでは破綻は時間の問題だ。
 人の問題は消費者側にもある。少子高齢化は予想以上に急速に日本のコミュニティ崩壊をもたらす。団塊の世代は、故郷を捨て流動化して都会に流れ着いたものが多い。団塊ジュニア(現在の30代、40代)はその影響で地方や地域の文化、風土、原風景を知らない「ふるさと難民」だという。また、その子どもたち、今の学生たちは「自尊世代」と名づけられ、「自分以外はバカ」「自分以外は風景 」に過ぎない。だから、平気で電車内で化粧をし、道の真ん中で軽食や迷惑行動ができる。バカに叱られれば腹が立つ。軽薄でか弱い自尊心を守るために他人に必要以上に攻撃的になる。ブランドを身にまとう。グッチだかシャネルだか のブランドはヨーロッパではステータス(地位や身分)を表す。弱い自分は鎧を求めるためブランド商品を女子高生までもが群がって買いあさる。
 だが一方で、日本の消費者の異常なまでの強い品質鮮度や清潔志向を見誤ったウォルマートやカルフール(欧米のスーパー)の感覚は市場を制覇できなかった。動物でも子どもでも「生物」的でなく、可愛い玩具として扱う。一家心中 といった日本的な心情は欧米では理解しにくい。現在の日本消費文化が普遍性を持つのは難しいだろう。

 



 三つ目の要素は「金(通貨)」であるが、今や経済唯一主義は流動化する価値のグローバルスタンダードとなっている。各国の法定通貨は市場で売買され、「ドル」や「ユーロ」「円」「元」などに集約される。 社会主義が20世紀と共に葬り去られた形で、残像の資本主義がバランスの崩れた市場優先の拝金主義、経済唯一主義として世界を席巻している。「金」は「物」「人」に加えて、「土地」「資源」を荒廃させる元凶ともなっている。
 ここで注目されるのは対極的な動かせない「プレイス=場所・地域」ではないだろうか。企業の基本要素にも資本主義の初期には必ず「土地」があげられた。だが「土地」には 固定の「場所・空間」 、固有な歴史や風土といった動かない要素と「立地」や「資源」といった選択でき、流動化した価値としての要素がある。現在でも人件費や生産コストの安い 土地を求めて企業誘致や海外移転が積極的に検討される。資源を求めて帝国主義や大航海時代は発展してきたし、これからも資源をめぐっての戦争はなくならないだろう。一方で資源の枯渇は地球規模で暮らしに影響するようになる。世界中でマグロやいわしだけでなく、主食の米やトウモロコシ、大豆が食べられなくなるばかりか、やがて水そのものが不足し、地球崩壊は人類の生存を不可能にする話も現実味を帯びて語られるようになった。企業は地球を捨てて月にでも移転するというSF物語が出てきかねない。その意味で今や企業も消費者もその土地にこだわらない。 土地を捨てて行く。だから流動化する貨幣にしか価値を持たせられない時代なのだ。
 しかし、現代において多様な商店街を崩壊させ、地域社会を破綻させたチェーンオペレーションが機能しないことで、そのコスト増で大手企業すら勝ち残ることは難しい。中国、インド、ブラジルに代表される第三世界の台頭は、世界戦略においてもアメリカ、ヨーロッパが一人勝ちを続けることは困難だ。 同じ原理は少数の勝者がゆえに維持できる。現代を席巻する経済唯一原理は必ずといっていいが世界を崩壊させる。それだけは誰の目にも明らかになりつつあることは間違いない。 環境破壊と並行して資源の奪い合いから経済社会は破壊されるだろう。

 多国籍企業は、資源を求めてその土地に固有な文化や風土を破壊し、資源を枯渇されながら人々を流動化させ、単一の価値に縛り付けてきた。その経済価値優先が世界的に蔓延する時代に、その最先端では、現状の経済優先が商品の生産価値を超える外部不経済、例えば環境コストを誰が負担するかで、コストを計算できずにシステム自体に行き詰まりを見せ始めている。エコロジーを無視したエコノミーはサスティナブル(継続性・持続性)のある有限な資源としての地球を維持できない。自分たちの永遠を不可能とすることがわかってきた。それでもその原理に固執するのは、 地球の未来や子どもの将来に無関心である現世代本位の自己中心的な存在か、つまり経済唯一主義の原理主義者か、目先の利益に無言を決めているか、問題が理解できない無知かのいずれかだろう。今や組織のトップの経営理念、企業家としての哲学が求められる。 人類としてのそれぞれの人格が重要な時代になっている。それは国家はもとより、自治体や中小企業までのあらゆる組織において共通の課題であり、いまや組織の「品格」はそこに参画する個人の「品格」の集合であることは間違いない。だから、逆説的に組織と対立しても、地球市民としての自覚や哲学が個人に求められるのである。複雑で多様な現代的な課題を整理するためにも確固たる哲学や信念がなければ、時代に流されてしまうのはいつになっても変わらない。

 世の中、親子や兄弟姉妹での殺人、妻と夫が殺し合い、幼児をひき殺しても謝罪の言葉もない人間がいる。高学歴で高収入、カッコいいブランドを身にまとった若者が、 今のままの感性や意識で、幼い者や障害者、高齢者にやさしい行いができるのだろうか。地域を守ろうと立ち上がることがあるのだろうか。これからの時代を、いま始まる少子高齢化を真剣に想像していけるのだろうか。本当に暮らしを守る地域社会を取り戻す方法はみつかるのだろうか。私たち自身も思考停止しているのではないか、と自問する。
 これから考えなければならないのは、地球を含めて私たちが寄って立つ「場所」に基点を置くライフスタイルだと思う。「地域」と言い換えてもいいだろう。「場所」とはその土地、空気、水といった自然環境、家族、友人・知人、血縁・地縁や働く場所、食べのもや生活必需品の生産から流通といった社会環境、言葉や人種・民族・宗教・思想といった文化までも含めたその人間のアイデンティティ(存在のよりどころ、人間の人間であるところの基本)にある。そして、多国籍化し無国籍化した均一の人類ではなく、それぞれの違いや個性、その地域固有な文化や風土を尊重した「理解のネットワーク」が大切なのである。

 水口さんの講演では、もう少し現実的具体的な企業経営の話に入るとともに、日本の暗い将来を離れて「アジアと日本」へと話題を移して終了したが、課題先進国としての日本の役割と華僑の強さが印象に残った。 被爆国ゆえの平和憲法を持つ、公害原論の体験国といった課題解決先進国としての日本の役割、リーダーシップ が日本の差別化としてまだまだ行ける源であることを感じる。。華僑市場としてのパワーでアジアを視野に入れると、 その知恵から学ぶことも多い。批判はあるだろうが、華僑は家族が世界中に散ることで、グローバリゼーションとローカリゼーションにそれなりの折り合いをつけている。同じ家族なのだが、その孫たちの顔はまるで異なっているという。子や孫の地域への同化、子孫の人種が多様で、白人から黒人までが家族として中華思想の正月を祝っている姿は、同じアジア人でも日本人の器量の小ささを見せる。それは反面教師として、現状の日本人全体が、今の団塊ジュニアの子どもたちの文化、ちっぽけな「自尊世代」になっているのかも知れないことを教える。世界の多様性や地球規模での展望のない、軽薄短小な「美しい日本」では安っぽいナショナリズムの復活に過ぎないということを諭しているようだった。



 話題は変わるが、25年以上も前に市民活動家や研究者と大学人との協働組織である「フォーラム人類の希望」という団体の事務局長をしていたことがある。代表は故玉野井芳郎東大名誉教授だった。玉野井さんは当時沖縄国際大学の教授として、一諸にイバン・イリチという思想家の研究をしていた。イリチは『脱学校化社会』『脱病院化社会』 『シャドウワーク』など産業社会のシステムを批判しつつ、ジェンダー(生物的な性差でなく文化的な性)やバナキュラー(土着的な価値)といった対抗的な社会システムを研究した学者でもある。また、玉野井芳郎さんは「地域主義」を唱え、エントロピーといった地球規模での経済を研究、『エコノミーとエコロジー』という著書で有名な研究者でもあった。一時はオールタナティブズやネオアカデミズムともてはやされ、対抗勢力として位置づけられたこともあった。
 その後の時代は第二の高度成長ともいえる世紀末にかけて、グローバリゼーションは彼らの問題提起をうまく包括し、体制内に取り込み商品化に成功してきた。彼らの言葉は、例えば「トラウマ」といった精神分析用語がアニメにまで登場し、子どもですら使うようになった。彼らの問題意識は潜在化し、陰に隠れてきたようにも見える。だが、現在、多くの市民の最大の関心は、経済問題と地球環境の問題であると言えないだろうか。
 そのフォーラムにはアイデンティティ論のエリクッソン研究者でもある恩師の『やさしさの行方』著者の栗原彬さん、 声なき声の会代表で政治学者の故高畠道敏さんはじめ、鶴見和子さんなど多彩な学者、研究者が参加していたが、 今思うと環境問題の活動家と経済学者が多かった気もする。自然保護連合や地球の友という団体は国連大学などで、地球の破壊、世界の貧困と取り組んでいた。先輩でもあった経済学者の栗 本慎一郎さんは著書の『パンツをはいたサル』で「貨幣は糞だ」といい、 グループでは貨幣の歴史や人類の多様性をどう連携できるかのシステム研究を行なっていた。オールタナティブなテクノロジー研究の若者も多数参加していた。同じ事務局で活動していた玉野井先生の一番弟子でポランニー(暗黙知の研究)や最近では地域通貨研究者 としても注目される東大教授の丸山真人さんなど、あの時代の若者が、再び切ったはずの髪の毛を伸ばして主役となって地域社会に戻ってくるのだろうか。彼らは「会社人間」という経済唯一主義の呪縛から解き放たれて、目覚めた存在として地域貢献できる存在かも知れない。2007年問題は、そうした地域を変える期待も寄せて、取りざたされているのではないだろうか。 学校の機能不全に対抗する新たな学問の時代を希望する。人間の知恵、言葉の力を信じたい。
不都合な真実の紹介サイトへリンクします※詳しくは「不都合な真実」のサイトを
 もうひとつ、今、元アメリカ合衆国副大統領のゴアさんが世界中を行脚していて、地球温暖化防止キャンペーンに取り組んだ著書や映画が話題になっている。彼の書名でもある『不都合な真実』というその意味するものは、 現政府や経済界に不都合であっても、歴史的に世界の、人類のためには告発すべき真実が隠されていることがあるということだろう。ゴアさんはご子息の命を見つめるという個人的な体験から、アメリカ合衆国の不都合であっても、世界に語らなければならない真実があることに活動を見出している。彼のような個人としてのスタンス、アイデンティティの覚醒から「人類」としての世界規模で地球を考え、活動できる政治家こそ、21世紀に必要とされる「世界市民」なのではないだろうか。イリイチの著書に『自覚の祝祭』というのがあるが、いま、覚醒する人間がどうやって生まれるのか、暴れる成人式の最中、破綻した地方自治体の夕張市の成人祭を自分たちで創り上げた若者の取材をテレビで観ながら、「ピンチはチャンス」なのだと実感した。今後40年で石油が枯渇し、北極の氷が解け、アマゾンの森林が消失するかも知れない地球崩壊の時代に、目覚める若者が生まれ出ることに最後の希望を繋げたい。阪神大震災というピンチの年、多くの若者がボランティアに目覚め、日本のボランティア元年になったように、今年こそ、地球温暖化防止の市民活動元年になれるだろうか。ゴアさんを見て、もう一度政治に信頼を持とうかと思った。もう一度人類の叡智を信じてみようかと思った。
 これらは4つ目の「P](プロモーション)とも言えるが、インターネットの進展は、大資本のテレビ、新聞といったマスコミュニケーションに頼らず、自分たちのネットワーク構築を容易にした。パンドラの箱の中にあった最期の「希望」は実はICT(インターネット活用のコミュニケーション技術)なのかも知れない。残るのは道具を手に入れた私たち人間の自覚しかない。


 最近は日常的な生活の中でも、異常気象や四季がなくなることで地球温暖化を実感するようになっている。IT業界での有名な法則に、 グラフで示すとずっと低い進行が、あるときを境に急激に上り始め、そうなると誰も止められないという急カーブを描く折れ線がある。地球温暖化の影響はそれに似て、最後の数字の二乗ずつに進行する可能性がある。それを教えているのが地球温暖化分析の IPCC(気候変動に関する政府間パネル)報告だ。気温上昇で何千万人の飲料水や食料不足、海面上昇や干ばつ、海の酸性化などの被害の予測がある。報告書は世界各国に待ったなしの対策を迫っているが、真剣にエコライフに取り組まなければ、今の予想が現実化するのは時間の問題に過ぎない。
 一方で、多くの国や人々が本気で取り組み始めてもいる。ライフスタイルそのものや、代替エネルギーの研究も進展してきている。報告書でもシナリオ毎の海面・気温上昇率を示し、我々に選択を迫っている。現状の「高度成長社会シナリオ」では今世紀末までに気温は最大6.4度、海面は0.59メートル上昇する。それに対して「多元化社会シナリオ」「地域共存型社会シナリオ」「持続発展型社会シナリオ」を提案している。今、そうしたオールタナティブ(代替可能)なエネルギー開発や科学技術が、経済的にも、地球規模でのコストを考えると十分に採算が取れる時代にもなり始めた。消費者も地球規模でのコスト意識から安ければいいという価値観から変わってきている。チラシに踊らされて使いもしない商品を大量に購入するなどの消費行動が変化している。そのことが大量生産、大量消費を前提にしてきた大手のチェーンオペレーションを機能不全にもしている。 一見地域経済を破壊し、不景気になるが、人類が大転換の覚悟が出来れば、そこにはあらゆる可能性を見ることが出来る。地域の顔の見えるコミュニケーションか、インターネット活用での無人、セルフレジシステムか、時代は省エネの地球にやさしいワークスタイルやライフスタイルに移っていくだろう。 どんなに地理的に孤立し、不便なような地域でも、大家族のような人間の集団が可能ならば、インターネットの技術は世界とのネットワークを可能とする。職住一致で低コストのワークスタイル、ライフスタイルを可能とする。それがSOHO−IT(小さなあるいは家庭をオフィスとするITネット)のワークスタイルの社会モデルだ。まさに『風船社会』のシューマッハが言った。Small is Beautiful.「小さいことは美しい」だ。
 そして、イリイチの概念で「コンビビアリティ(自律共同性)」というのがあるが、それはみんな楽しい食卓を囲み、宴会をしている状況を意味する。それぞれがみんなのために食事の用意をし、親しい仲間との会話や歌、踊りで会食を楽しむ状況を想像しよう。そうした社会を彼は歴史や地理的に探し出し、「コンビビアリティ・ソサエティ」と呼んだ。今、私たちが再生させたいと願う地域、コミュニティはこれが理想なのではないかと思っている。

 地域の商店を駆逐したはずの大手スーパーが崩壊前夜とも言われる時代に入る。地域を再生する知恵を総力戦で考え出さなければならない時代なのだ。エコロジーを考えると いうことは、地域の経済、エコノミーを考えることになった時代。まだまだ未来は暗くないのかも知れない。「市民」は「知恵の民」のためにも勉強会が大切な時代になることは間違いない。そして、市民の学びは実学であり、学ぶことは即ち実践でなければ意味がない。政治体制的にも思想的にも社会主義と資本主義といった二項対立の時代を経て、企業と消費者もお互いの影響を自覚し、経済と環境問題も両立する科学が育ち始めている。コンシューマーという企業の対象としての消費者ではなく、企業の生産(プロダクト)に参画する消費者「プロシューマー」という協働事業に注目されている。消費者自らが要求 し生産する商品は、企業にとっても余ったり捨てたりする無駄なコストをなくした完全販売の注文商品となる。必要なだけのオンデマンド生産と消費が無駄なコストを作らない合理的な経済社会を作るだろう。エコノミーとエコロジーが対立せず、同じ希望として、貧困と環境破壊から人類を救うことを夢見よう。 水口さんやゴアさんの講演を聞くと、ある種の絶望感を感じる。地球破壊の危機から人類の滅亡に至る道が見えてくる。自分1人が何をやっても変わらないという気持ちになる。だから現世代本意の、自己中心の欲に惑わされそうになる。でも、この道を歩こう。きっとこの道を歩く仲間に出会うことを信じて。
 好きな詩人のゲオルグ・ゲオルギューという人は次のように言う。「私は、明日地球が滅びるとしても、今日リンゴの種を蒔くだろう」。

 皆さん、ともにもっと学びましょう。

いつも少し難しすぎると言われて反省しています。ぜひ、ご意見、ご感想をお寄せ下さい。(Y)

 

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