No.19

特集「地方政治と選挙、地方自治体を考える」

 

 

民主主義のバージョンアップ


はじめに
  「今年は選挙の年だ」と言われる。4月には統一地方選挙が始まる。県会議員、県知事、そして、夏には参議院選挙があり、もしかすると衆議院とのダブル選挙なんてのもあり得るのだろうか。どちらにしても、この機会に地方で暮らす市民にとっての政治の仕組みや「選挙」、そして、地方政治が動かす地方自治体そのものを考えてみよう。

   ここで言う「議員さん」や「行政職員」「地方自治体」というのは具体的な「戸田市の」という意味ではない。あくまでも一般論としての話なので誤解しないでほしい、という前置きをしておこう。日本人は「本音」と「建前」の分け方が上手いので、普通は「建前」論で耳障りのいい話が多いが、実は腹の中では違う意見が常識になっていることも多い。最近、大きな組織、例えば大企業や県庁の不祥事が明るみに出されるニュースが多いが、それらの多くは以前からまことしやかに裏情報として知られていた例もあり、最近は「本音」を黙っていられない正直者、内部告発者が増えてきているから表ざたになっているという分析もある。と言っても次からの例は全てではない。もちろん、世の中はテレビや新聞のいやなニュースばかりではない。圧倒的にはいい人、善意が社会を形作っているのは間違いない。同じように議員さんや職員ががんばっているのは確かだ。あくまでも一例に過ぎない。こう言い訳させてもらって、論を進めよう。問題は危機意識があるかどうかだ。
 


職業としての議員

   議員という人種は、「選挙に始まり選挙に終る」という。いつも頭には次の「選挙」のことが離れられないので、政治活動とは選挙で当選する活動のことと錯覚しているような感じだ。テレビの特集で「職業としての議員」を目指す若者が採り上げられている番組があったが、この不況の時代に、一部上場企業や公務員試験に乗り遅れた有能な人間にとっては確かにラストチャンスなのかも知れない。まさに「末は博士か大臣か」は今でも生きている。よく言われることだが、プロ野球の大リーガー、例えばイチローになるより、必死で勉強して東京大学へ入る方が簡単だろうし、東大出のキャリアの国家官僚になるつもりでなければ、地方自治体の職員になる方がもっと可能性はあるに違いない。しかし、現実問題は、安部内閣が打ち上げているように、再挑戦、リベンジはなかなか難しい。日本の教育、就職システムは随分変わっては来ているが、それでもなお単線型であり、一度ドロップアウトするとなかなか機会はない。「ニート」に代表される鈍行列車に乗ってしまった若者や途中下車した旅人は新幹線時代の仲間はずれなのは確かだ。それは「ムラ組織」に似ていて、社会全体の風土になっている。一度倒産した会社の再起は、アメリカなどから比べれば不可能に近いシステムだ。最近、大企業や官庁のOBをコンサルタントに派遣するといった事業が多いが、現役で出来ないことがなんでOBになったら出来るのだ、と批判していたある亡くなった人物を思い出す。一度旨味を味わった人間が退職しても特権が守られる仕組みなのだ。国益、省益、会社利益と言い換えようが、しょせん自分たち仲間の利益を守ろうというエゴに変わりない。

   さて当然、地方政治家においても血縁・地縁の強さの「ムラ組織」が強い。確かに国政と違い地方政治は顔見知りの情実選挙が多く、与野党相乗りの選挙もよくある。現実的な地方政治は、よく言えば政党より政策、実行力など人物本位ともいえるが、自分たちの利害の代表、「知り合い」という断りにくい人間関係がゆえの「ムラ組織」が強いのが実態だ。それでも住民・市民の流動化は、特に大都市や首都圏の新興都市においては、縁故関係で決まるようなムラ役場よりは公平な選挙の可能性が多くなってきたと言えるだろう。あきらめなければ4年に一度のオリンピックなみに再挑戦も出来る。少し遠回りでも芸人やタレントとして人気を集めたり、有名になればずっと可能性は高くなるかも知れない。投票率の低さは組織票の強さを示したが、時に「風が吹く」ように若者や今までの無関心層が政治に興味を出すようになれば、組織を持たない政治家も当選できる確率は高くなる。つまり、職業として「政治家になる」可能性は、一度学校や会社、役所に入れなかった人間にとっては、まさに再チャレンジの絶好の舞台としてこれからの時代は有望なのだ。だから一度議員になった人間はその地位に執着し、多選を目指すのだろう。

   だが待てよ。「議員になる」ということがどうして「職業」なのだ。なぜ政治家になることが、役所や大会社に入るのと同列なのだろうか。任期で選挙の洗礼があり、生涯の安定ではないというかも知れない。だが、これからの大企業も終身雇用ではなくなるし、行政だって夕張市の例をあげるまでもなく破綻やリストラは大流行する予測はある。リスクは同じだ。それより利点の方が多いのではないだろうか。実は実態に関してはあまり詳しくはないのだが、議員の歳費年収は上級公務員並みだろうし、問題になりつつはあるが、いろいろな外郭団体の役職や政務調査費などの諸手当も厚い。何期か続けば恩給や勲章やら、永年勤続の表彰やらもあるそうだ。その上、実働時間は、会期の間だけと考えれば1年の半分にも満たない。今時、総労働時間が180日以下というのは、昔の相撲取りやデカンショで半年寝て暮らした学生より楽だろう。恐らく官僚や大企業の社員になるのと同じかそれ以上の役得、特権があるのが魅力なのだろう。地域における名誉や人を動かしたりの権力も、その動機になるのかも知れない。ともかく議員になる、職業として議員を続けるだけのメリットは十分に考えられるのではないだろうか。
 


代議制民主主義と直接民主主義

   しかし、それでもなお考えよう。「議員になる」ということがどうして「職業」なのだ。これはメリット、デメリットからではなく、制度から考える必要がある。まず議員というのは、市民や選挙民の代理として議会で政策を審議し、決定する役職だ。いわゆる「代議制」という間接民主主義だ。これに対して、市民や住民自らが討論し決議したり、直接投票したりするのが直接民主制ということになるだろう。意見があるものは間接的な代議士を選挙するのではなく、直接行動で意志を表明できる政治システムのことだ。町会やPTAの寄り合い、倶楽部や市民団体の多くは小さい単位だから、ほとんどは直接民主的な方法を採っている。しかし、国会議員のように全国から東京に集まって審議するのには、代議制はやむを得ないし、「職業」のように専従にしなければやっていけないのは仕方がない。他の職業と兼業で、夜にちょっと出かけて言って議論して解決するほど簡単な仕事ではない。半分、専門職として、つまり職業政治家がどうしても生まれてしまうのが実態だ。だからといって世襲制にして特権階級化してしまうことはいかがなものだろうか。封建時代なら生まれついての階級は壊せなかったし、バカ殿でも殿様になるしかなかったが、今ではそんなことをしていたら北朝鮮と変わらないことになってしまう。それはまた選ぶ側の見識、品格でもある。特権化し固定化した議員に「庶民」の生活や想いが通じるのだろうか。そうならないことこそ成熟した民主主義なのである。

   こうした国会議員と比べ地方議員はどうなっているのだろうか。最近話題なのが「道州制」といった中間的な行政単位だが、今、焦点がボケている感があるのが「県」レベルだ。特に神奈川県などのような政令指定都市が2つもあるような県では、県庁の人間は自分たちを「足柄郡庁」のように卑下するものもいるという。つまり、横浜や川崎といった中心部には触れることができず、自分たちの管轄は県の周辺部、足柄郡だという嫌味である。神奈川県知事より、横浜市長の権限や影響が大きいとも言える。埼玉県もそれに近くなってきてはいるが、県立の様々な施設やサークルと、市町村レベルの施設や活動が重なってしまっては確かにその違いや意味がわからなくなっているところが出てきている。特に地方分権の推進で、県の行政指導が伝わらず、地域が独立して行政権限や機能を充実してきているので、その存在意義が問われかねないのが県議会や県庁なのだ。国防や福祉が国、周辺弱小地域や少し大きな単位での公共事業を県、あとは各市町村の自治に任せるという各行政単位での棲み分けが、同じような部署を縦割りで作るようなダブり、ムダがなくなるリストラとして求められる。同じように国会議員、県議会議員、市町村議員と一元的な選出方法や議会運営がムダではないのか、より市民の意志を反映させる民主的なあり方なのか。そろそろ21世紀の行政や政治のあり方そのものを問い直してもいいのではないだろうか。
  
   現代はパラダイムシフトの時代といわれる。それは当たり前、自明なものとして見過ごしてきたものやことに「?(疑問)」を投げかける、疑ってみることが必要だという意味だ。自治体の役所、議会、町会、あるいは教育委員会、民生委員、社会福祉協議会、商工会といった当たり前にどの地域にも行政にもあるが、それぞれの設立の趣意や意味、役割、実態をもう一度考えてみる。果ては「税金」とか「勤労の義務」「投票の権利」、いやもっと根源的な「働くこと」や「生きること」まで一度問い直すことこそ、当たり前だと思い込んでいたことへの疑問としての「パラダイム」転換になるのではないか。その中から「地域」や「成人」「親」「子」、「夫婦」といった人間としての意味を考えることにもなる可能性も出てくる。その結果、熟年離婚に発展しまうこともあるのかも知れない。(脱線だった)
 


デモクラシーによるバージョンアップ

   小泉内閣が華々しくスタートさせたe-Japan戦略でいう「電子政府」はあくまでも行政の話であって、それも国家や中央政府のレベルでなく、自治体(行政)のIT化、地域情報のIT化として推進してきた。政治学においても、インターネットの活用がどう政治を変えてきたか、変えるのかという分析も理論も出てきていないのが現状だと思う。インターネットの活用は、情報公開、意見表明、議論の公開・蓄積といった民主的な決定に市民が誰でも容易に参加できる可能性を生む。つまり、単に行政の情報提供やサービス提供にとどまらずに、この市民活動支援サイトが目指すような双方向でのアイデアの交流や協働によることで地域課題を解決する手法、ボトムアップ(現場から)の意思形成に対するより民主主義的な可能性を持ってくる。それが「eデモクラシー」の可能性なのだと考えている。結論から言えば、インターネットの活用、eデモクラシーの発達が進めば、「議員」という自分たちの代わりに議論してもらうという「代議制」自体が不要になるのではないか。全てが直接民主主義の方法で行なわれる可能性が出てくるのではないかと思うのである。そうなると今のような「職業としての議員」はいらなくなる。

   もともと地方議会は、雑多な身分の市民や住民の多元的な意見を闘わせることでの合意形成を行なうための仕組みだ。年代や地域や職業に偏りがないように公平に選出できるようにと「選挙」制度を考えてきた。だから魚屋のおじさんや近所のご隠居さん、サラリーマンのパパやお母さんの意見が通るように、誰でもが議員になれる。村会議員や市会議員は、特権やお偉いさんの地位でなく、買い物籠ぶら下げて、エプロンしたままでも議論できることこそ理想だった。アメリカなどでは議員は他の職業を持っていて、今でも兼務が多い。リタイヤしてから弁護士やボランティアとして活躍している補佐官や大統領もいるくらいだ。地方議員は日本のPTA会長ぐらいの感覚だ。それでも地域に住む自営業者ばかりでなく、他地区への通勤者や企業などの従業員では、そうやすやす仕事を休んで議会には出られない。育児休業に似ているが、議員と職業が兼務しにくい実態があるのだろう。しかし、人間の側にそういった事情があるならば、むしろ町村や市会レベルの会議は本来夜間にやるとか集まりやすい時間帯にやるべきではないだろうか。なぜか役所は勤め人が地域に帰ってくる前の時間に仕事をやめて窓口を閉めてしまう。なぜか議会は誰も傍聴しないような昼間の時間にしか開かない。当然、議員への休業補償的な意味合いから報酬は高額になる。しかし、夜間や出安い時間帯に議会を開くとなれば歳費は安くていいはずだし、場合によってはボランティアだっていいはずだ。少なくともeデモクラシーが発達するまではこうした議会の運用で民主主義のバージョンアップを行なう工夫は可能ではないだろうか。議員の費用を大幅カットすることでのリストラは職員を切る以上に先に手をつけるべきではないのだろうか。そうなれば多分、議員を「飯の種」、職業にするという考えはなくなるに違いない。いろいろな人が議員になったり、形式的でない議論が行なわれたりすることが重要だ。これだけ新住民や多元的な市民が多くなってきた時代に合う新しいコンセンサスの採り方が、21世紀の自治には必要なのではないだろうか。
 


議会を市民会議に?職員を選挙で?

   戸田市では議員の市議会とは別に、公募市民などによる懇話会や市民委員会という政策提言などを一般市民が行なう仕組みを作っている。これには直接「市民の声」を反映させることと、「素人の意見」を反映させることでより具体的現実的に市民の声を政治に生かそうという民主的な考え方がある。しかし、議員さんの中には「議会軽視ではないのか」と考える方も見受けられる。確かに選挙という洗礼もなく意見を言えるのは面白くないかも知れないし、その選出方法などに問題が出ないとは限らない。まだまだ工夫の余地はあるだろう。先日の前志木市長の穂坂邦夫さんは、「市長は議員の中から選ばれるシティマネージャーにすべきだ」という国政の議院内閣制のような考えを語っていたが、教育委員会で問題になっているように集団主義的な合議制では政策決定のスピードが遅くなり、派閥や利害調整が課題となる。私はむしろ、市長は市民の直接選挙なのだからもっと絶対的なリーダーシップを持たせていいのではないかと考える。反対に現在の議員、議会をなくし、選挙で選ばれた委員と役所や市長が選んだ委員、専門家などの「市民会議」といったコンセンサスを得るための議会を夜間に開設したりすることを提案したい。これらの意見を十分に吟味して、市長は思い切った政策を実現すべきではないだろうか。もっと大胆に言えば、市職員も委員会に人を出したり、市職員そのものを選挙や最高裁判事のように投票で評価するシステムが必要なのではないかと思う。首にもならず市民に顔を向けていない職員が安穏として「公僕」であることを忘れてしまう今の採用方法ではなく、市に対し、市民に対してどんな仕事がしたいのかを意見表明して任命されるシステムがあってもいいのではないかと思うのだがいかがであろうか。また、実行部隊、実際に担当する職員が納得できない政策や施策では効果は半減する。実際、組長が代わってもサボタージュに近い、骨抜きにする組織も官僚制の悪いところで、市民や政治家が変わっても巨大な行政組織がイノベーションできなければ絵に描いた餅になりかねない。「職業としての議員」が民主主義のバージョンアップを阻む右翼とすれば、実は行政職員、官僚制は左翼に匹敵する。職員は匿名性で守られて、任期もなく、誰も首に出来ないようなところがあるだけ始末に困る。自分はどんな思いで「公務」を担っているのか、どんな行政にしたいか意見を述べさせ、民意に問うシステムがあってもいいのではないかと思う。それが本当のところでの民主主義のバージョンアップである。政策が決定されても現実的具体的な段階で動かなくすることが実行部隊の官僚組織には可能なのだ。だから、公務員も選挙のような形で採用すべきではないだろうか。あるいは市民委員会や議会に採用を問う仕組みを持たせられれば面白いと思う。
   あるいは任期付公務員のような形でもいいので、市長は大幅にブレーンを入れ替えて公共経営できなければ、やりにくくて仕方ないのは、民間のM&Aを見ればすぐにわかることだ。そして、市長に選ばれる前からそうした市民シンクタンク、ブレーンを持てないような人物は、仮に当選してもやはり裸の王様に過ぎないだろう。夕張市や地球温暖化を考えるまでもなく、現世代人にとってはよくても、自治体や地球の将来はそんな政治家に委ねていては先がないことだけは確かだと思う。もう残された時間は少ない。イノベーションできる時代にしかイノベーションはできない。立ち上がる体力もなくなっては滅びるのを座して待つだけになる。すごく過激な意見だったかもしれないが、民主主義の究極のバージョンアップは、インターネットを活用したeデモクラシーの発展を待つしかないだろう。それまでに市民が出来ることはなんだろうか。市民のスキルアップも当然なのだ。民主主義は誰かに与えられるものではなく、みんなで共に学び、作り上げていくことからしか生まれない。だからこそコミュニティーが重要なのである。

いつも少し難しすぎると言われて反省しています。ぜひ、ご意見、ご感想をお寄せ下さい。(Y)

 

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