No.15 特集「コミュニティビジネスと企業市民」


 

 

はじめに


 去る10月28日、29日の土日に戸田市商工祭と環境フェアが市役所近辺で開かれた。土曜日には戸田市文化会館をメイン会場に市役所の会議室などを分科会会場に埼玉県内の中小企業経営者が集まっての勉強会「埼玉中小企業家同友会・全県研究集会」なるものが開催された。そこで今月の特集は、 中小企業、商工業者と市民活動の関係について取り組んでみようと思う。

 まず、土曜日の研究集会のある分科会では、企業家が集まり「地域活性化」をテーマにしていた。それは中小企業が元気でなければ地域が元気にならない。特に埼玉県は90%以上が中小企業であり、地域の活性化は地域経済の活性化なくしては始まらないという問題意識からだと言えるだろう。今、時代は地域分権化が叫ばれるとともに、大企業のグローバリゼーション(多国籍企業)化により地域が破綻しかねない時代だ。安い労働力を求めて海外に生産拠点を移すなど、あるいは地方の公共事業も大手が受注すると利益は全て東京など一極に集中して、地方では経済が循環しなくなっている。だから、夕張市に限らず自治体の破綻や地域経済の行き詰まりの中で、地域の暮らしを守る中小企業のネットワークを通して地域活性化をコミュニティビジネスという視点から考えようというのだ。分科会ではまず馴染みの薄い「コミュニティビジネス」という言葉の学習をとっかかりに、各パネラーからその活動や体験から具体的な事例を報告、グループ討論で中小企業と地域のネットワーク作りが「まちづくり」に広がる方向を考えた。ここではそのエッセンスを抽出しておこう。

 

 
 

コミュニティビジネスとは何か?


 まず私たち「市民」は必ずどこかの地域に暮らし、地域社会に住む。地域社会は土地柄、気候風土、歴史、そこに暮らす人々、商店や企業、各施設、野山など固有の社会資本を持ち、それらが縦横無尽に結びついて「
コミュニティ」を形成している。「村」「町」といった行政区分でなく、人が暮らすコミュニティの単位としての「ムラ」や「まち」、そこに住む住民という意味だけでない「市民」という言葉が広がっている。血縁から地縁、職縁。同窓会やら県人会やら様々な人のつながりがある。今やインターネットの世界というバーチャルなコミュニティも存在する。そこに「政治」が加わる。日本人の深層心理、精神性(エートス)の中には「お上」意識が残っており、長いこと「上意下達」で支配されてきた。反対に、困ったことは「神(上)頼み」的に、何でもお願いすることでの他力本願だ。まだまだ民主主義が成熟しているとは言い難い。だから、相変わらず市長や政治家、官僚はお偉いさんであり、「行政」と「市民」が二項対立しやすかった。現実には、政治は 税金という形で集めたお金の再分配による、行政サービスの振り分けを行なっている。
 それでも地域の課題は何とか税金による行政サービスと有償の民間企業サービスで解決できた。しかし、時代が高度化、複雑化するにつれてそこからはみ出してしまう、取り残されてしまう課題が出てきた。それが新しい住民・市民、地域の「
ニーズ」と呼ばれる課題だ。同時に、それらを民間のやり方や今までの方法に囚われない自分たちの創意工夫で解決しようという人々が出てくる。いわゆる「シーズ」といわれる、ボランティアや市民活動家の出現だ。「2007年問題」と言われるように、今まで会社人間だった沢山のリタイヤ組のボランティアが地域社会に登場するという話題もある。
 税収が伸びない、国や県からの権限や責任の委譲、経済的に苦しくなった地方自治体の行政サービスの限界。無償ボランティアや民間企業の損益分岐からの事業化の限界。利益は出なくとも事業として「
自律」しなければ「継続性」が確保できない。今までのやり方では、安心して福祉や住民サービスが維持できない現実。 それは市民活動や市民個人の限界でもあった。そこから個人(自然人)の責任から組織(法人・企業)としての「経営力」を視野に入れた「特定非営利 活動法人(NPO)」が立法、制度化されることになる。しかし、何でもかんでもNPOならいいかというと、NPOも法人であり企業体であるはずが、やはり「創業は易く継続は難し」で休眠や閉鎖NPOの数も多い。行政にしろ、NPOにしろ単独での事業化には限界があることを痛感する時代である。  
  ここへ来て各分野の持っているリソース(資源)をうまくネットワーク化することで協働して事業を進めようという「
コミュニティビジネス」が誕生する。つまり、コミュニティビジネスとは、行政、市民、企業、あるいは福祉や教育、環境といった分野も越えた多種多様なコミュニティを形成する「主体」が「協働」して、目の前にある地域課題を、「効率」や「効果的結果 」を求めて、「自(立)律的」「継続性を考えた「ビジネス」で解決する手法だと言えるかも知れない。まだ福祉系のボランティアには「ビジネス」という言葉にアレルギーがある方も多く、「ボランティアは無償の犠牲的精神、献身的活動」という定義の方もいるが、どんな事業も経費がかかるのは当然であり、善意であれ寄付であれ、それらを経済的に賄えなければ現実的にはきちんとした事業とはならない。行政にしろ政治家にしろ無償で動いている訳ではなく、報酬は当然として支払われている。父親の権威が、給料が銀行振込になってから落ちたという話があるが、直接目の前で自分が支払わないから「タダ」だと錯覚していることは多い。また、英語の「ビジネス」には営利というより「活動」という意味があり、日本語の「儲け」という言葉も「信じる」「者」という意味や、「利益」という言葉も単にお金を意味するのではなく、社会的「評価」という意味合いもある。行政だから、社会福祉法人だから、公益法人やNPOだから「信頼」できて、企業だから、ビジネスだから信頼できないという話ではない。 最終的にはそこに暮らす「人財」「志」なのではないだろうか。
 だから、その地域に起こっている問題・課題を、企業家が持っているビジネスの手法(マネジメント)で解決する社会事業が注目され始めているのだ。それは一方で「行政」の持つ非効率、単年主義、縦割り組織といった従来の欠点をそのままでは「地域経営」新しい「公共経営」に耐えられないのであり、思いつきや助成金漬けで「経営力」のないNPOなどでもやっていけない現実がある。それだけ企業家やリタイヤした社会人から見ればおかしな現実を当たり前に思っている地域の実情がある。有名な話だがクロネコヤマトの社長が、知的障害者の作業所を訪問、いくらもらっているのか尋ねた際、1万円との答えに 思わず「日給ですか」と聞き、「月給です」という回答の現実に驚き、その後、自社で福祉事業を行い、その5倍、10倍の給料を取れるようにしたという 逸話がある。企業家のビジネス・マネジメントはそうした可能性を持っている。この例え話にあるように、現実の福祉行政の矛盾は、自律的に暮らしていくことを阻害するもの も多い。むしろ、地域社会にとってこれから求められるのは企業家の思想であり、大企業の「経済優先」でない、中小企業家の「人間尊重」、地域に共に暮らす人々とのコミュニティビジネスとしての再構築にある のではないだろうか。 商店や企業というイメージが、マスコミや大企業によって作られたものも多く、全ての企業が単にお金のためだけに営んでいる訳ではない。街のお豆腐屋さんが店頭公開して、大企業になることを目指している訳ではない。多分、地域の皆さんに安全でおいしいお豆腐を届け、喜ばれて店がつぶれないこと、せめて年に5%位の売上アップか利益が出る、継続的に少しずつ発展できることが願いではないだろうか。コミュニティビジネスという考えには、 大企業にはない、また、官尊民卑という発想を変え、「共に暮らす」地域コミュニティを支える仲間作りという想いがある。

 

企業市民という考え方

 地域政治の主題は住民の身近な課題解決にある。いわゆる「ドブ板政治」だ。それを国政を担う政治家までが行なおうとするから利益誘導や地域エゴが生まれる。民間や企業にとっても私利私欲の利益誘導から政治を利用する考えは根強い。だから企業が政治に関心を持ち、政治家に近づくと自分達の利益だけのために政治を動かそうとする意図だと思われる。政治献金や政治連盟など、今でもお芝居に出てくる「越後屋、お主もなかなかのワルよのう」と悪代官に言わしめる悪徳商人のイメージがある。一方、政治家の関心も「お金」と「票」であるという固定観念が根強い。地域政治では特に「票田」のための政策に力を入れざるを得ない。お金は企業から、票は政策や施策の利益誘導からというのが常識になっていた。それはそこに住む「住民」の福祉や教育、生活環境などを中心にした公共サービスが中心となる。だから従来は地域経済のバランスシートなどには無頓着であった。これは地方公共団体、自治体の職員も同様である。毎年、きちんと予算を消化さえすれば有能という評価であった。難しい施策も国や県からの「上意下達」で自分で考えなくても何とかなった。
 ところが昨今、あらゆる場面で従来のやり方が通用しなくなってきている。いち早く自己変革に取り組んだのは民間企業である。アメリカのエンロン事件を例に取るまでもなく企業の社会的責任(CSR)や企業遵法思想(コンプライアンス)など、企業が市民社会に受け入れられなくては存亡の危機になる経験的事件が、企業を変えてきた。その大きな要因に「情報化社会」があげられるだろう。大企業がいくら多額の費用をもってマスコミを動かしても、内部告発やインターネットによる情報公開というミニコミ、口コミに負けてしまう流れが出てきた。この数年、企業の顔である社長、企業家の顔が大きくクローズアップされている。それは日本の鎖国のような大企業に、例えば、日産のカルロス・ゴーンさんのような外国人企業家がリストラに登場するようになった。ソニーでもアメリカ人社長であり、社外取締役やニュース番組でも多くの外国人が見られる。また、ベンチャー起業にはその立志伝から個性的な経営者が話題になる。ソフトバンクの孫さんや問題のライブドア、東横イン、日本航空の社長、最近の教育問題審議のワタミの渡辺社長など、タレント並みの有名人も出ている。これは単にITのIがInformation「情報」でなく
、Intelligence(インテリジェンス)という知性を伴った、「志」や「思想性」を兼ね備えた「情報」という意味で、まさに「企業家の顔」がひとつの情報であることの象徴ではないだろうか。
 
社長の顔は企業そのものであるのが、まさに中小企業だろう。日本で初めて西洋式「会社(カンパニー)」を作ったのは幕末の坂本龍馬で、それが彼の「亀山社中」だと信じているのだが、当時の薩摩の西郷や長州の桂たちは、今流で言えば大会社の社員や官僚のような身分で、大砲や軍艦がほしければ殿様にお願いできたところだが、脱藩している龍馬は自分で手に入れるしかなかった。だから彼は「商社」を作って薩摩と長州を取り持って、その儲けで自前の船や軍隊(海援隊)を揃えて経営し、そのことで自分達の「志」を遂げようとする。その民間主導的なやり方を私は「商人志士」と呼んでいる。埼玉が生んだ偉大な社会事業家であり、企業家である澁澤栄一翁もその一人である。現代では「社会的企業」とか「社会的起業家」と呼ばれるが、この背景に私は「企業市民」という考え方があるように感じる。それは中小企業の存在そのものを問うのである。企業の存続の目的が、例え生産拠点を海外に移転しても利益優先なのか、そこに働き、生きる市民の「暮らし」優先なのかという原理原則の考え方でもある。企業の経営とは「企業を取り巻く環境に的確に対応して、新しい価値を創造し、社会に提供し続けるプロセス」(氏家康二)であり、利益は「その経営行為に対する社会からの評価」であるべきだと思う。
 「企業市民」という考え方は、企業の存在を「社会に貢献する」ものとして企業のあり方を問い直すと共に、行政にとっても、その政策や施策が「住民=選挙民」中心だけでなく、法人税を取るだけの企業という見方から、地域を共に支える存在として見直さざるを得ないだろう。地方政治にとって、地域経済を防衛する「企業市民」という発想は、行政が独占できた公共事業を「新しい公共」という視点から見直さざるを得ない。同時に、一般市民にとっても地域にある商店や企業の意味や価値を問い直すことになるのではないだろうか。そもそも「企業」という形態は古くから存在するがゆえに、また「営利性」から日本では高い評価を得られないイメージがある。それは日本人の潜在意識の中で「お金」や「金銭」が卑しいものであり、経済から距離のある貴族的・士族的道徳観が醸造してきたエートス(精神性)となっているからだろう。士農工商は奥深く意識の中に眠っているのだ。同時にそれは「本音」と「建前」の二重意識として、あるときは官尊民卑や「医者や弁護士になりたい」動機に「お金持ちになりたい」といった不純で歪んだ職業観を作ったりする。現代でも公務員や市民活動家は「正義」であり、企業や商人は利己的で自己中心的な「悪」に近いイメージがまかり通る。

 

商工祭の「お仕事体験隊」

 もし、「企業市民」という言葉を地域が取り込むことが出来るならば、私たちが「中小企業家」という言葉でくくられる「営利性」というマイナスイメージが、そこに「志」「理念」という味付けを加えることで、「経営」のプロ集団としてのプラスのイメージが見えてくる。彼らの経営力は地域に「新しい価値を創造する」だろう。それは非効率な現状の行政や経営力に弱いNPOなどの欠点を十分に補える可能性を秘めている。『協働の発見』という文章の中で「社会的企業の定義をめぐって」安岡喜三郎さんは『「企業」(これには協同組合も含まれる)という形態であるからこそ、同じ社会目的を持った他の活動団体に比べて労働という点で「有給労働」を曖昧にしない。このことは伝統的NPO等に比べて雇用能力が格段に大きいと言える。従って、社会的企業は90年代に入ってグローバリゼーションの名の下の社会的排除、リストラ・大量失業等の進行に抗し、社会目的と雇用を結合させた事業体として注目されてきた。』という。つまり、企業家が、その社会的存在に気づき、同じ社会目的、言い換えれば「志」を持てば、「経営」や「組織」「雇用」をいい加減にしないから、NPOなどより自主・自律的に社会貢献事業化を行なうことも出来るし、政府や自治体との「協働」事業化によって社会事業を持続的に発展させて行ける「社会的企業」に成長するのだ。だからこそ、自普請や町の旦那衆の復活で自腹を切ってでも「まちづくり」に取り組もうという中小企業が増えているのであり、そのネットワークの重要性とともに 地域の中小企業家と行政や市民活動との協働が再認識されているのではないだろうか。大企業や行政で市民の臨時職員の方が誠意や対応がよく、それなのに非正規職員として差別されている現実がある。NPOに至ってはその下請け扱いで最低賃金すら守られていない場合も多い。 地域の活性化に、地域経済の活性化、つまりは地域の中小企業をどう育てるかに一番のポイントがある。それがコミュニティビジネスが需要だという意味でもある。
   地域で暮らすとは、地域で働くことでもある。戸田市は合併をせずに自律的に生きていくことを選択した。いわゆるSmall is beautiful「小さくても美しい」まちづくりだ。SOHO(ソーホー)という言葉も似合う。スモールオフイス、ホームオフイスという職住近接のワークスタイルやまちづくりを意味する。今、「働く」という言葉がお金に結びついた経済唯一主義に偏っている。しかし、「働く」ということは企業や起業と同じように、お客様に喜んでもらうための「人間活動」であって、有償だ無償だ、ボランティアだとことさら区分けする必要があるのだろうか。それは地域での存在感、充実感であり、社会貢献による自己実現なのではないだろうか。その証のような形で暮らしていける正当な対価を「お金」という通貨でもらっているのではないだろうか。
  今回、商工祭では、戸田翔陽高校の生徒さんをリーダーに、地元の小学生達が各テナントや出店で「働く」という体験を行なうイベントがあった。対価に地域通貨「戸田オール」が支給され、お祭りの20以上のお店で通用することで、70名以上の小学生が参加した。しかし、彼らの喜びは、地域の商店や企業で「働く」経験やお客様からの励ましだったという声が多かった。「働く」ことの体験から彼らが学んだことは、おそらく「お金」には返られないものだったろう。こうした新しい価値の創造が、今、地域に求められる一番大切なものなのではないだろうか。そのために企業家や商店も意識改革に、大いに勉強する必要がある。(Y)

 

 

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