No.16

特集「市民活動と法」

個人情報保護と情報公開を考える

 

はじめに

 いきなりだが、今年のクリスマスのサンタクロースは苦労するに違いない。なぜかというと、個人情報保護法のおかげで道を尋ねても教えてもらえないのではないかと心配してしまうからだ。つい最近までは情報公開だと騒いでいたのが、ここへきて何でもやれ個人情報だと猫も杓子も言い始めている。日本人に限るのかどうかはわからないが、言葉に踊らされて勝手な理解や拡大解釈がまかり通り、様々な市民生活に影響を及ぼすのが、意外と法律に関わることに多い気がする。

 そこで、今回は「市民活動と法」について考えてみたい。
 最近の国会で与野党の攻防が行われた「共謀罪」が話題になったことは記憶に新しいだろう。現状の運用では市民活動の上で、数人が集まってマンション建設反対の話し合いをしても「共謀罪」が適用されかねないということで、冗談半分みたいな議論がなされているが、ことこの法律の拡大解釈は現実的に結構恐ろしい状況を生んできたと思える。戦前の「治安維持法」においては8割が拡大解釈により、当時の共産党、左翼思想の取り締まりという立法の趣旨から離れて、天皇制批判、反軍思想、果ては民主主義的な考えまでを弾圧することになった。冤罪としても有名な「横浜事件」では、雑誌や新聞の編集者が行った温泉旅行が、その集合写真が共謀の証拠に挙げられた例だ。あるとき誰かの告発で、町会で、あるいは市民団体で出かけた温泉旅行が「共謀罪」の対象として警察に引っ張られるという、笑い話のような歴史がつい最近まであったことは忘れてはいけないのではないだろうか。そして、それが本当に今では笑い話と言えるのだろうか。
 

日本人の順法思想と拡大解釈・過剰反応


 日本人の順法思想、その精神的なあり方は市民活動にとって実は重要と言える。そのいくつかの例をあげて考えてみよう。

よく言われることだが、日本人は「本音」と「建前」の使い方がうまい。個人的には皆さんは法律を守る方ですか。それとも現実的に解釈し、適当に運用する方ですか。例えば、田舎道の信号で、自動車が1台も通っていないけれど「赤」だったとする。あなたはそれでも信号を守り、横断しないタイプですか。それとも車が来ないのだからと安全を確認すれば渡ってもいいと考えますか。ちょっとここで考えてみるのもいい。あるいは高速道路のスピード違反のネズミ捕りに捕まったドライバーは、ほとんどが「俺は運が悪かった」と思うだろう。路肩で反則切符を手にしている間に、傍らを違反スピードでほとんどの車が通り過ぎていく。捕まらなければ違反ではないとでも考えているのだろうか。


 もうひとつに「暗黙知」といった、目に見えない共通のルールに左右されやすいということも考えておこう。いわゆる「阿吽(あうん)の呼吸」とか「目は口ほどにものを言う」とか、農耕民族のムラ社会から来た慣習法や判例重視は法律の世界でも多用されている。社風や雰囲気、身内だけの習慣、常連さん独自のやり方と探せば切りがない。現代はそうした「常識」「良識」の元になっているコモンセンス、パラダイムといった原理原則を再考し、問い直し、転換しなければならない時代だとも言われながら、そうした手法、やり方のほうにまで議論が進んでいない気がする。


 私たち現代人には当然としている考え方や見方がある。例えば「天動説」で言えば、宇宙船から地球を見ることもできる訳で、地球が丸いことは常識だ。今さら地球が動いていないとはだれも思わないだろう。しかし、毎日の生活の視点から地面が動いているという実感はあるだろうか。日々の暮らしでは昔と変わらずに「日は昇り、日が沈む」という「地動説」で生きていないだろうか。あるいは、3本の直線が交わるところを近代絵画の遠近法で見ると四角の角、奥行きが見られるが、人間にはただの線が交わっているとしか見えないアルカイック思考の文化も残っている。心理学の実験でただのゴミにしか見えなかった図が、「キリストの顔だよ」と言われると、今度はどうゴミに見ようとしてもキリストの絵に見えてしまうというものがあるが、今流で言えば「アハ体験」とか、自分の頭がどう構成されているか、見方や考え方そのものを疑うということは大変な作業なのかも知れない。まさに知らず知らずの教育や学習から、私たちはある地域や時代の「暗黙知」を叩き込まれているのだ。

 こうした血縁、地縁、職場など地域共同体での暗黙のルールは、外からは理解されにくい。だから町会のルールがわからない移転してきた新住民や外国人との摩擦も起きやすい。これらが顕在化するのはこうした異文化との接触か、自分達で成文化することでの見直しの作業が必要だ。「当然」「当たり前」と思ったことでも先入観から判断しないで、一度、全く異なった視点から、相対化して見てみるということが大切なのだと思う。

 ついでに行き過ぎの例として「放送禁止用語」の指定がある。戦前も伏字といって思想書の古書を見ていると時々「××」という単語が出てくる。父親が軍隊から出した手紙に墨で読めなく線を入れられたり、漫画が(父は絵が上手く、飛行機や戦車の絵が検閲にひっかったらしい)ダメだと叱られた話を聞いた。戦後もGHQに教科書の文章に自分で墨線を引かされたという話も有名だ。それに近い話で、放送など公的な情報では使ってはいけない言葉や単語を放送禁止用語と言う訳だ。これは何も最近に始まった訳ではないが、性的な言葉やフォークソングのイムジン川の歌そのものが禁止された時代もあった。しかし、最近の放送禁止用語の横暴は一時ひどかった。映画で「馬鹿が戦車でやってくる」という作品では「馬鹿」が「ピー」という機械音に編集されて、全品が「ピーが戦車でやってくる」となり、座頭市シリーズではいたるところで「ピー」が入り笑ってしまった。さらには、子供たちが見るガンダムでも「敵のピーだましだ」(ピーにはメクラが入る)やら「郡盲象をなでる」が「ピーをなでる」となり、流れや文化そのものを否定しかねない荒っぽいやり方がまかり通った。さすが最近では渥美清の寅さんシリーズのように最後に「原作者の意図を尊重して一部不適切な表現がありました」程度の注意書きに改められてきているが。昔、「ソルジャーブルー」という映画の虐殺されるインディアンの陰毛が銀色にチラチラ加工されて、悲劇を映倫が喜劇にしたと批判された時代を思い出す。どんな人間が真面目な顔をして作業をしているのか覗いてみたものだ。マスコミや市民が過剰反応からの悲喜劇と言えるだろう。

 その時代時代に「戦犯」は存在する。それも善意の市民が多い。平安時代からコムロといった子供のスパイを育てたり、正義感から仲間の隣組で密告したり、「非国民」とか「赤狩り」と称して引きずり出したりは、歴史的に右も左も変わらずやってきたことであり、行き過ぎれば中国の紅衛兵や今の北朝鮮にもなり兼ねない。ただ怖いのは、それらを善良な市民が分担するということだ。善良で良識ある市民が、真面目がゆえに、法の拡大解釈をおかしいと思わなくなってしまう、その精神構造に問題があるような気がする。戦後のフランスでも取り上げられたことだが、戦中は占領ドイツ軍に協力し、レジスタンスを密告しながら、戦後はあたかも自分達がレジスタンスであったように親ナチの協力者や娼婦をつるし上げた市民の多さだ。本当のレジスタンスはフランス人の1%程度だったが、解放後の市民は90%以上がレジスタンスだ、と言われた。市民はただ占領軍になびき、時代の流れに動かされていく。市民活動に「参画」する「主体」としての「市民」が文学でもテーマになったのも、実存主義の遥か昔の時代なのかも知れない。しかし、それらのテーマは古くて新しい。

 

個人情報と情報公開


 そのひとつが最近の「個人情報保護法」だ。だいぶ前の朝日新聞の調査でもこの法律をめぐって市民活動を阻害するものとして問題視する特集など、いくつかの議論がある。立法の趣旨や精神から離れて、市民活動を、市民生活のコミュニケーションや近所づきあいの再生を難しくする運用が、拡大解釈が問題だ。それを往々にして不勉強な行政職員や一般市民が、堂々と主張しかねない、ある種の脅威になるところが怖い。特にマスコミの考えや行動には何か別の意図や力があるのかと勘ぐりたくなる。事件で被害者は死んでいるからなのか実名で、犯人や被疑者は仮名や匿名だったり、顔や手錠部分にモザイクを入れたりする。まさに保護だ。
私たち農耕民族では、ムラは知った顔が原則で、異文化との出会いは共同体そのものが対処してきた。共同体内は「暗黙知」でうまくいくし、団体外は団体という塊で対応してくれる安心感があった。よそ者に接触する機会が少なくてすんだのだ。しかし、遊牧民族では常に個人が異文化と接触する機会が多い。右手を上げる、両手を挙げる、カウンターの上に手をのせる、すぐにポケットに手を入れないなどのルールは、敵意がないことを、言葉や文化の違う相手にもわかりやすいしぐさだろう。日本人の阿吽の呼吸とは違った意味で、言葉でない表情やジェスチャー、身振りで意味を伝えるのも西欧人の方が上手い。いわゆる「ノンバーバルコミュニケーション」といわれるやつだ。だがどちらの文化にしてもまずは名前を知り合うことからスタートすることは間違いない。「名を名乗れ」とはどちらにしてもコミュニケーションの基本中の基本のはずだが、最近の問い合わせの中には、こちらの情報は知りながら自分は「匿名」性の中に逃げようとする卑怯者が多い。そして、その言い分に「個人情報保護」を持ち出す。


 インターネットの普及はその傾向に拍車をかけている。もっぱら情報が文字情報のネットの世界では、顔や表情、雰囲気などがわからないだけに、「なりすまし」も簡単であり、匿名性を広げるとかえって誹謗・中傷の応酬が繰り広げられる。最近では新聞やマスコミでも欧米並みに匿名性から実名記事に転換しようという流れの中で、一番身近な地域社会が個人情報保護の名の下に匿名が流行っている。こんな没コミュニケーション状態で地域社会の再生など不可能に近い。ますますバラバラな中央集権的な管理社会が必要になる。不特定多数の中傷攻撃や、誰だかわからない匿名の密告で、相互監視社会は成り立つ。
 ある養護学校の教師が、授業でがんばった生徒が褒められたときの本当にうれしそうな生き生きとした顔を写真にし、それをお母さんや保護者のみんなにも見てもらいたいとホームページに載せようとした例がある。もちろん、管理者は「個人情報保護」の観点から、この写真は削除した。みなさんは学校や施設のホームページに子どもの顔や表情が掲載されているのを見たことがあるだろうか。恐らくないはずだ。子ども達は後姿か横を向いている。あるいはピンボケか極端な場合は犯罪者のように目のところに黒い幕が張ってある。今では運動会で誰が一等賞かもわからない学校も多い。昔は行き過ぎかと思えるような恥ずかしいくらいの大きな名前のゼッケンを付けさせた学校もある。同じ原色のジャージに大きなゼッケンといった囚人のような格好で修学旅行をさせた学校もあった。今度は反対に名札を全てさせない学校がほとんどだ。どちらも学校によっては行き過ぎでないか、その過剰反応に驚かされる。

 当然、これらの問題はそう簡単ではない。様々な微妙な問題を含んでいる。また、担当者には、安全を守らなければならない厳しい現実が多すぎる。社会全体に異常な犯罪が野放しになっているのも確かだ。学校開放など地域に開かれ始めた校門が、異常者の多さに警備員の門番とともに再び閉鎖されてきている。しかし、問題は、誰が守るのか、下手をすれば外からの侵入者だけやクラスのいじめだけでなく、教師や親の虐待もあり得るので、内向きに閉鎖するだけでは解決しないものも多い。個人情報を保護するだけでは問題は解決しないだろう。家庭内での児童虐待や死亡事件が、その名の下に公表され救出されなかった事件も相当数あることは否定できない。
 特に内部の情報を外部の多くの人たちに公開することで不正を阻止することも多い。個人情報保護と情報公開の原則は表裏一体のものだと思う。企業のコンプライアンスや、最近の官庁の談合など、組織と個人のあり方、内部告発者の保護なども話題だが、情報公開の原則がこの数年間は重要なポイントであった。組織の不透明さをどう公開し、誰もが正しく判断できるように情報を提供しよう、市民の要求に行政は応えるべく、相互の信頼が築けるような情報交換、いわゆるコミュニケーションを大切にしてきた。一方でマスコミュニケーションは、大きな権力や企業でなければ情報発信が難しかった。今まではお金がなければ広く市民に情報を告知する手段が少なく、勢い新聞、テレビ、ラジオといったマスメディアに頼らざるを得なかったのだ。しかし、現代はインターネットの発達で、お金のない中小企業やNPO、市民団体が情報発信をしやすくなった。ミニコミがマスコミと同じ、いやそれ以上に情報を公開することを可能にしている。それだけにお互いの「暗黙」のルール化や同質と錯覚している異なった人々との交流もきちんと考えなければならない。
 それは個人を尊重しつつ、個人は自分の責任で情報を公開し、行動するという新しい「市民」社会の到来であり、一方で何でもかんでも国や自治体、行政に依存したり任せっぱなしにするのではなく、お互いの個性や利益を尊重し、共通の福祉や環境、共同体としての「まちづくり」に力を合わせるという相互扶助、「新しい公共」の確立の時代の到来を予感させる。
今こそ市民活動の時代であり、こうした市民活動を支援するサイトによって情報を相互に共有することが求められているのではないだろうか。その基本は、相互の情報発信(名を名乗れ)から情報(これには名前や人物といった情報だけでなく、人そのものも含む)交換による「関係」作り、そして、「信頼」関係を構築していくことがあげられる。このサイトは1年目にしてそうした機能の充実を再検討しなければならない。その一助になっていることを念じて、今年の締めくくりとさせていただければ。よいお年を。(Y)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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