No.17

特集「市民と行政の協働事業」

 

協働によるまちづくり

 

はじめに


2007年明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いします。

 戸田市の市民活動新春第一弾として、市のコミュニティ推進課を中心に各市民団体や委員会が集まって新春のイベントが開かれる。開催は1月28日(日)、市役所5階の大会議室で、前志木市長の保坂邦夫氏を講師に「協働によるまちづくり〜市民の立場、行政の立場〜」というテーマで開かれる予定だ。今回はそのテーマである「協働」を取り上げて考えてみたい。

 

グローバリゼーション(世界主義)とローカリゼーション(地域主義)

 お正月だからと言うわけではないが、大きな視野で考えてみると、世界的な状況や国内の様々な問題点が、文明論的な、地球規模での課題と密接になってきていると実感しないだろうか。昨年の暮れの前に『公害原論』で有名な宇井純さんがお亡くなりになったが、30年以上前の水俣や四日市などの公害問題は日本国内の問題であったが、今後の自然破壊、石油や自動車産業などから考えると中国、インド、ブラジルといった 1国内問題が地球規模での公害問題に発展すると予測される。その意味でもあらゆる問題がグローバル化していることは間違いない。一方で多国籍化する企業が、後進とされる国や地域の産業や生活を苦しめる動きもある。鯨やマグロなどの資源保護問題に限らず、同じものを世界中の人が食べる訳にはいかない。地域特有な自立的な生産や産業が成り立たなければ、そうしたローカルに実際に暮らす人々はどうなっていくのだろうか。
 未来学者のアルビン・トフラーは、『第三の文明』という著書で、農業革命、産業革命に次ぐ、現代の情報革命を取り上げたが、BS放送の正月の特集番組で彼はこれからの時代でのキーワードに「人間の再定義」が必要だと結論付けた。私は同時に「公共」の再定義も必要なのではないかと思う。言い換えれば「人間の再定義」とは「コミュニティ」の再定義なのかも知れないと思う。そもそも「ヒト」は1人では生きられない「社会的動物」であるとされている。「人」という 漢字の成り立ちは二人が互いの背中を合わせて寄り添う形成文字であり、「人間」という文字はまさに「人」の「間」、つまり関係そのものを意味する。さらに「類的存在」としての「人類」という概念を示したのはマルクスだったか、果たして現代人には、戦国時代ぐらいまでの「ムラ」や「クニ」から幕末の「藩」に至るまでの「国」概念から、近代国家観での「日本国」までの広がりが、地球規模での「人類」意識までに広がってきているのだろうか。いまや政治家は「美しい日本」を語るのではなく「美しい地球」を語らなければ、地球温暖化から人類を救うことができない時代なのだ。
 現在の経済戦争のようなグローバリゼーションとローカリゼーションの対峙の中で、亡霊のように生き返るのがナショナリズムと宗教のような気もするが、人のアイデンティティ(存在証明)、つまり「よりどころ」はその人が所属する「コミュニティ」にあって、そのとらえ方で決まる。言い換えれば自分が「地球人(人類)」なのか「日本人」、あるいは例えば「長州人」とか「戸田のインディアン」なのかは、地理的な場所にこだわらず自意識としての人の存在証明になる。日本人が海外旅行やサッカーの応援で初めて「日本」を意識するなどの例のように、国土を持たなかったユダヤ人やジプシー達のように、生まれや空間に関係なく「仲間」や「民族・部族」「宗教」 「国家」などでの結びつきが存在した。だから人の意識は、必ずしも「血縁」や「地縁」に結びつかない場合もある。 これからはインターネットを通じてよりバーチャルなつながりのコミュニティが広がる可能性もあるだろう。
 逆に言えば、社会主義国のユーゴスラビアが指導者のチトーが死んでまもなく内戦になり、共産主義というイデオロギーの枠が外れると、セルビア人だ、モンテネグロだとか 第一次大戦前の亡霊のような先祖がえり、民族主義の対立が表面化したのは記憶に新しい。宗教や民族、ナショナリズムの復活や再生が、昨日までの同志や隣人を殺すことになるとしたらその「復古」は恐ろしい。だが、私たちが口にする「コミュニティの再生」とは、必ずしも「昔に帰る」ことではないはずだ。緑の再生と同じように、一度失われた自然は帰らない。死んだものは生き返らないからこそ、わずかな残り火の中から、今度はそれを絶やさないような知恵と工夫でよみがえらせる手法が大切になる。再生とは過去の過ちを是正し、新しい生き方として再び生を育て、守ろうという進歩のことなのではないだろうか。まさに「原点」を見直し、「革新」していく一連の動きを表す言葉ではないかと思う。
 

個人と組織・コミュニティ

 さて、最近の話題からいくつか考えてみよう。昨年はネット株やホリエモン事件に代表されるようなある種のバブルに近い、不景気の反動のような浮かれた年だったような気がする。彼らの「拝金主義」「経済唯一主義」「金銭主義」の限界、狂想曲の終焉でもあってほしいと願っている。一方で戸田市ではその対極にある地域通貨がようやく全市に流れ始めた年でもある。通貨は人間の間を流通する血液に例えられる。だから世界中で売買されるようになった法定通貨と、各地で勝手に流通させようという地域通貨は、まさにグローバリゼーションとローカリゼーションの違いを表している。それは「個人(私)」と「コミュニティ(公共)」のとらえ方にも如実に出てくる。「コミュニティ」がその人の成り立ちを現すものとすれば、家族・血縁、地縁、職縁、様々な行政や所属団体、そして、一番大きくは地球へと広がる。自分がどこに帰属し、どこの利害を守る存在なのか、もし、その所属するコミュニティの利害が対立するような状況になった場合、自分は何を優先すべきなのかを考えさせる問題が多発した。例えば企業のコンプライアンス(法令順守)では、会社を守るために社会犯罪や脱税など国への法律違反を正当化する社長や会社員、省益や党の利益のために談合や組織犯罪に加担した官僚、政治家、従業員や株主を裏切り、だましたベンチャー経営者たち、彼らの問題提起は「会社はだれのものか」「国家はだれのものか」を考えさせる。
 それは「公共の問題」をあたかも「私的な問題」としてすり替えようというやり方としての課題としても出た。最近でも「公人」としての委員が、「一身上の都合」というやり方で処理された。一方で、例え個人のプライバシー、「私的な問題」のような形でも「家庭内暴力(DV)」や「児童虐待」など情報を公開することでコミュニティが共有すべき「公共の問題」をないがしろにしてきた。ストーカー被害を私的な問題として民民(民事問題)扱いで関与しなかった警察が、殺人事件を救えなかった例もある。学校での「いじめ問題」や「個人情報保護」にも似ている。恐喝や集団暴力、強姦や売春というきつい言葉を「いじめ」という耳障りのいい言葉に置き換える。放送禁止用語のように使わないことで意識化させず、問題を潜在化させてしまうやり方だ。役人や教員、警察官という身分は誰のためにあるのか。私たちに様々な問題を投げかけている
 官庁や会社、企業といった組織、言ってみればある種のコミュニティを私物化し、自分たちの利益のために利用する。組織が組織防衛のために他の組織を攻撃する、それがユーゴやアフリカでは民族、部族対立になり、宗教対立になる地域もある。それから考えればいじめ、汚職や談合はまだ可愛い方だといえるのだろうか。公的資金の導入や脱税なんて問題にならないことなのだろうか。ここで問題なのは自分がよって立つ居所、つまり、アイデンティティなのだと思う。家族のために働き続けて手に入れたマイホーム、その新築の家が家族崩壊で誰も住まなくなったら、会社や組織のためにやったことで首になったり、会社そのものが倒産したとしたら、命をかけて守ろうとした国家が家族を餓死させたり、不幸にしたとしたら、私たち個人は何を思うのだろうか。
 つい最近の話題では夕張市の財政破綻だ。今までの政治家や役人の無策、無駄遣い、放漫経営のツケを、これからの職員や住民に負わせる行政はどうなるのか。大いなる関心を持って観察したい。同時にここを見本に、市民活動が行政と協働して、破綻しても最低はやらなければならない事業をどうやって継続できるのか、まさにピンチの中に、協働によるまちづくりのチャンスがあるのではないだろうか。平成の大合併の後に来る、行政のリストラ時代に市民活動が何をすればいいのか、何ができるのか。夕張市は財政悪化状況ランクでは全国で20位だった。まだ上に19の市町村がある。これからが市町村倒産の時代の幕開けなのかも知れない。

 

新しい公共とPPP(行政と市民のパートナーシップ)

 2007年問題と言われる、団塊の世代が退職し、今までの職縁から地縁のコミュニティに大量に流れ込むことを問題にしている。それは一方で、いわゆる「会社人間」が地域社会になじめるのか、混乱はないのか、地域が恐れているようにも 見える。他方、それは、第二の人生のアイデンティティを探す旅の話題であり、地域社会へのボランティアや社会貢献できるリソース(人的資源)として、また巨額な退職金など経済的リソースの地域への還元が期待されてもいる。 個人にとって「働く」「生きる」ことを再考させる。地域に根付いた人間の生き方を模索させる。「働く」対価が単に金銭だけでなく地域や人々からの「評価」、人間として役に立っているという「存在証明」にあることを広く認識させることになる。 同時に、「まちづくり」を考え直させるだろう。行政に任せっぱなしで無責任だったことを反省させる。彼らのパワーは財政的に苦しくなった「公共」を維持し、再生する代替エネルギーになるだろう。しかし、そうした考え方に疑問を呈する識者もいる。彼らが本当に「公共」の新たな担い手になるか、それはこれからの実態を見ていくしかないが、共に「新しい公共」を作る仲間であることだけは確かだと思う。
そこで、「新しい公共」を考えてみよう。
 もともと「新しい公共」概念は、英国病とも揶揄された経済的などん底にあえいでいたイギリスのサッチャー政権以降の取り組みから生まれたものだが、今回は去る11月29日に開かれた「日米PPPフォーラム」を参考に日本におけるPPP(Public Private Partnership)、つまり、どちらかというとアメリカ型の官(Public)と民(Private)の新しいパートナーシップで作る「公共」について考えたい。
 PPPとは、アメリカではかなり以前より唱えられた考え方で、早くも1793年には有料道路建設や1869年の大陸横断鉄道で取り組まれたという実績が ある。1970年代にはかなりの普及が見られ、現在では毎年千件を超える事業がPPP方式で行われている。これはアメリカ建国の歴史から考えても至極当然のことで、連邦制や地方分権の民主主義の国と、つい最近まで封建制や天皇制に支配されてきた中央集権国家の日本とは大きな違いがある。
 1980年代のアメリカで、連邦政府や自治体が財政難に陥り、その中で公共サービスを官民連携でやらざるを得ない状況となることで、より洗練された形のPPP方式の都市開発や地域再生プログラムが広がる結果となった。このことから財政難に苦しみ始めた日本の地方自治体や政府が採用しようということで普及していると言えるだろう。日本の場合はどうも本末転倒で、悪く言えば、従来のやり方では公共経営がうまくいかないから民間から金とノウハウを出させようという魂胆が見え隠れする。
 同じような考え方に最近よく聞くのがPFI(Public Finance Initiative)や指定管理者制度という言葉だが、戸田市でも民間のPFI研究会などが児童センターの管理アイデアなどをまとめたものがあるが、実際には従来通りの社会福祉協議会や外郭団体、財団などに名前を変えて下ろしているのが実態で、単に補助金や助成金額を削減し、「自前でがんばりなささいよ」的なコスト削減、リストラに過ぎない面が多いような気がする。 行政の組織防衛から見直してみれば外郭団体は民間と位置づければ切りやすい。まずは自分達が生き残るためのトカゲの尻尾切りでは、本来のPPPでもPFIではない。(※ PFIと指定管理者制度の用語の説明は省略)
 それは日本における「公共」が、どうしても「お上」意識が官民から抜け出せないところにあるのではないだろうか。官民とも本来的に公共サービスは行政が行うということを前提に「公共」を担う聖職者意識がある。下々には「公共」のことは任せきれないという意識があり、その意識改革ができていないために、大前提の仕組みは変えられない。組長(首長)は財政的に不可能に近くてもおねだりする住民や市民に応えようとする。結果的に形式化したままコスト削減が最大目標になり、PFIや指定管理者を担う民間やNPOですら行政の「代行」業となってしまい、どんなサービスであるべきか、といったサービス向上の目的などを明確にしないまま、言い換えれば「公益」の理解がないまま、財政支出削減を目標と錯覚した「委託」事業になりやすい。そのために市民ボランティアやNPOが行政の安い下請けになり、最低賃金すら守れない事業が横行する。これでは益々公共経営が育たないばかりか、正規職員と臨時職員の格差が広がり、さらに無償ボランティアなど、民間の正社員や派遣社員との格差どころではない格差社会が地域に作られることになる。
 

PPP(行政と市民のパートナーシップ)・「協働」によるまちづくりを成功させるために

 PPPの実現には、現状の組織ややり方、意識改革を伴うイノベーションが必要だと思う。そして、それをやり遂げようという強い信念、志のある仲間、同志の関係、ネットワークだ。PPPを成功させるにはどうしたらいいか、フォーラムではフロリダ・マイアミ市の再開発プロジェクト元事務局長でアトランティック大学教授のシュニッドマン氏は次のように指摘した。「官の側に、支配権を手放したくないといった意識があるのでしょうか。PPPの実現には、官と民がビジョンを共有し、同じ目標へ向かう必要がありますが、そういった意味での合意や相互理解が少ないのかもしれません。例えばカラオケに行って、お互いがリラックスして一晩一緒に過ごすことによって、今までの殻を破り、新しい決断ができることもあるのではないかと思うのですが。」笑ってはいけない。実際に政治家や市職員と夜を徹しての議論がどのくらいできるだろうか。ビジョンを共有するためにはコミュニケーションが不可欠なのだ。 利権や組織防衛でなく、まさに「公益」のために共闘できる組織作りが重要になる。
 戸田市では神保市長が「パートナーシップ」を訴え、その政策から今のコミュニティ推進課が誕生したと思うが、役所の中でその意味を一番理解し、実践しているのも彼らだと思う 。しかし、彼らの働きを市役所全体に広める組織の戦略的イノベーションが果たして実現できるのだろうか。 市長はそこまで考えているのだろうか。そうしたリーダーシップと共に、市職員の意識改革にかかっているのだと思うが、行政自らが自己変革し、これから財政破綻しない、サスティナブル(継続的なサービス維持可能)な公共経営を目指さなければならない。
 一方で、単なる住民ではなく、自分たちの暮らしを守るために自分たちの義務を自覚した市民が増えることも重要だろう。同時に政治家や官僚に媚び諂った、行政の「代行」委託ではなく、新しい公共を担うという意識改革が民間やNPOにも求められる。対等な立場で行政、市民、民間企業がビジョンを語り合う場こそ、市長が理想とする市民活動推進委員会や様々な懇話会方式ではないだろうか。
 戸田市ではそういった議会とは別な直接民主的な装置を作ってきた実績がある。日本の公民連携で不足していると 、指摘される市民参加や住民の意思を汲み取る仕組みづくりに努力してきた。一歩間違えれば談合や癒着などの批判を恐れることから本当の「協働」には至らない例や、選出される市民委員の人材難、まだまだコンサルタントの出来合いの建前ビジョンの議論に終始したり、はじめに結論ありきのアリバイ工作のような懇談会も多く、コミュニケーション不足は否めないが、それでも埼玉県の市町村の中では先進性を持ち続けていると評価できないだろうか。これらのプロセスがそれぞれの「民主主義の学校」として意識改革に貢献するだろう。そして、具体的なPPPによる事業の実現は、まさに民主主義の醸成として実を結ぶことになるだろう。
 現在の市民活動支援の政策や施策は行政と市民の双方の意識変化に貢献していることは間違いない。それがまずは「協働」の効果だと言える。そこから始めていくことでPPPはスタートできると期待している。
 日本でPPPを成功させるためには何が必要かとの問いに、シュニッドマン氏は「アメリカではプロジェクトの目的から、民間側の提案内容や選考方法など、全ての情報が住民に公開されます。市長のeメールを閲覧する権利も市民派持っているのです。そうしたプロセスの透明性、公開性が大切だ」と答える。PPPが財政難からの行政の下請け化、コスト削減のみの安請け合いに陥らずに、真の意味でのサスティナブル(持続性のある、継続的・自律的)なサービス向上を互いが力と知恵を出し合い、「協働」していけること。 そのためにはどんな街がいいのか、まちづくりのビジョンを共有し、それへ至る全ての情報が公開され、共有できることが重要だと思う。個人情報を含めて情報を公開し共有できるかどうかは、相互に「信頼」がなければ出来ない。サスティナブルなコミュニティ=まちづくりはまさに相互扶助、相互信頼が不可欠なのだと思う。市民活動推進や支援が、そうした市民とともに市職員の意識改革のプロセスになることも願いつつ、月末のイベントに参加したい。(Y)
 

講演会は1月28日(日)午後1:30から市役所5階の大会議室にて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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