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市民活動が育てる民主主義
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皆さんはゴールデンウィークをどう過ごしただろうか。5月の連休は旅行で様々な街を見る経験や憲法施行60年の憲法記念日、教育改革のこどもの日と、戦後の日本を考えるいい機会の祝日もある。市民活動やコミュニティの再生をテーマとする私たちにとっても、政治や未来を託す意味でも多角的に取り上げるべき課題の宝庫でもある。いくら考えても、話し合っても尽きることはない。そのやり方についてもいろいろ教えてくれる1週間でもあった。 |
■マンション自治会での例
◆考えるきっかけに、知り合いのマンションの自治会でのある話をしよう。マンションで、駐車場の植木が大きく育ち過ぎて日陰で布団が干せない、湿気で迷惑している。枯葉の処分、駐車スペースの増設の必要性から伐採しようという提案が出た。理事会などで何回も審議され、最後の総会でもほぼ決まりかけたとき、1人の入居者が反対を表明した。大木を切ることの是非は、自然破壊が叫ばれる中でまさに正論であり、そのデメリットはエゴに過ぎないというその主張に総会参加者で反論できる人が出ず、たった1人の意見で今度はひっくり返る状況になった。議長をしていた知人は、それでも多くの意見でもあり、現実に日照での被害もあることからとその人と議論になり、時間切れで埒が明かない状況から多数決で決めようとしたそうだ。それに対して、それは議長の横暴だ、少数意見を尊重しないのか、自然破壊を許すのか、いまそれぞれの意見を聞こうじゃないかと詰め寄られ、結果的にはしたり顔の長老が出てきて、感情的なしこりを残すのはまずいから先送りにしようということになったというのである。
◆皆さんは、こうした状況でどうお考えになるだろうか。迷惑を被っている住人。駐車場の空きを待っている人。落ち葉で苦労している管理人。夏の散歩で日陰に助けられている人。緑を楽しんできた人。そんなことはどっちでもいいと感じている人。もう木を守ろうと使命感に燃えてしまったその人。議長として今までの流れで議事を進行して決定させたいと思う知人。さっさと多数決で行けばいいじゃないかと割り切っている人。1人でも納得していないのだからもっと議論をすべきだと思う人。このままでは感情的なしこりが残るから、今回は決定しないで閉会すべきだという人。お任せするから早く終わりたいという人。と、こうした利害のあるなしを含めて様々な意見が対立し、判断もバラバラなのが実際の今日のコミュニティなのだろう。
◆具体的にどのパターンの意見にシンパシィ(共感)を持つだろうか。私自身は、地球温暖化にも大いなる関心を持ち、ボランティアで年に何本かの木を植えたりもするエコロジストを自認しているが、知り合いの苦労話もずっと聞いていたので、現実的な対応の必要性は理解していた。街中の小さな広場の大木がこれから起こす問題も理解できる。しかし、それだけではない。この実例はいろいろ考えさせてくれるのであえて採り上げてみるのもいいのではないかと思う。視点は二つだ。ひとつは理想と現実といった、考え方と言えるかも知れない。もうひとつは多数決といった民主主義の決め方の問題である。
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■理想主義的現実主義
◆まず、こうした地域コミュニティの環境やルール作りなど、どんなまちにするか、どんな地域にするのか、大きくは国づくりのイメージまで広げると、憲法や民主主義の根本まで考えるケーススタディにもなる。人は自分の地位や身分、立場などで利害が異なる。人種民族、宗教、階級などでは戦争などの争いの種にもなる。人は元来不精で保守的なのかも知れない。できれば同じような考えや仲間と暮らすのがいい。わけのわからない人間とはできるだけ接触しないに越したことはない。交流なんて面倒だ。暗黙のルールを理解している常連客だけの慣れ親しい地域が安全で暮らしが楽なのは確かだろう。同志的なコミューンを求めて地域づくりを理想としたい。特に農耕民族の日本人は、出会いの得意な狩猟民族と異なり、異文化との交流は苦手な気質を持っている。DNA的にいわゆる固定した同質のムラ社会で育っている。
◆だが、現代日本は、現実的には流動化した社会である。親しい仲間や親類だけで暮らすのは難しい。当然、毎日のように知らない住人が増えてくる。外国人や若者といった古老にとっては異邦人や宇宙人(?)が越してくる時代だ。理想は理想。現実は現実で、コンセンサスを得ることは難しいが、それでも共生するしかない。町会や団地の自治会でも、その組織的な存在自体を知らない住人が転居してくることもある。それを当たり前のような姿勢で町会費を徴収しようとしたり、ゴミの出し方で腹を立てたり、あちこちで無用の軋轢(あつれき)やいざこざも起こる。異文化や思想の違う人間とどうやって折り合いをつけ、同じ地域で、共同で暮らしていけるかは、これからの社会の大きな課題でもある。
◆ほとんどの地域共同体では、既得権がある、前からの住民が大多数を占めることから、少数者は不利益を受ける。だから返ってマイノリティ(少数派)が結束を強め、党派性を帯びた団体行動に出ることもある。集団での対立は子供の社会から大人の世界まで、ときには戦争といった暴力的な手段にまで広がることもある。「戦争の時代」といわれた20世紀を超えても人類はその解決策を見出すことはないのか。ここで大切なのが「理想主義」と「現実主義」といった対応に仕方と「絶対的価値」と「相対的価値」という価値観ではないかと考える。私は自身を「理想主義的現実主義者」だとしているが、つまり現実に対応できない理想、いつまでも現実化できる可能性のない理想主義は宗教に近いと考えている。その理想は絵に描いた餅に過ぎない。
◆反対に理想のない現実路線は妥協の産物か、一方の強制に思える。一見合理的な現実主義者の中には、自分が生きる本質や自由の意味がわからないものも多い。何のための現実なのか、その現実がもたらす人の幸福や明日への希望は、やはり理想として語り合うものとして心のどこかになければ悲しい。ビジョンや夢を理想として語れる存在こそ、人間の人間たるものなのだ。人にはどんな小さくても夢は、なくてはならない大切な心の栄養剤なのだと思う。
■正義と卑怯者
◆話は変わるが『国家の品格』で有名になった数学者の藤原正彦さんの新刊『心に太陽を唇に歌を』で、父親から五つの戒めをしつけられたと書いているそうだ。まだ読んでいないのだが、「1人を多人数で殴ってはいけない。年少で弱いもの、女は殴ってはいけない。謝っているもの、許しを乞うているものを殴ってはいけない。」といった「暴力肯定」と、今の学校だったら騒ぎになるかも知れない内容なのだが、その背景には「人間として卑怯であってはならない」、人様に「恥ずかしい」行為は慎め、という彼の両親の教えがあるという。
◆詳しい内容は別にして、殴ってはいけないものを教えるということは、反対に殴るべきもの、殴ってでも守らなければならないものを教えている。この戒めを破って弱いもの「いじめ」に対して見て見ぬふりをすることも「卑怯」であり、「恥」だというのだ。だから今の学校現場でのいじめ問題は、いじめっ子といじめられるものの関係だけでなく、周りにいる無関心なこどもや見て見ぬふりをするこどもの「正義」に対する心の荒廃を憂うのではないだろうか。
自分が卑怯者であり、自分が恥ずかしいと思うことは、潜在的に自分を嫌い、自信を喪失し、人に対する思いやりや「やさしさ」を育てない。それは他利でなく自己中心な利己主義でありながら自立・自律心を育てない。それは理想への諦めを醸成し、暴力や権力におもねる、お金や力に弱い、依存心の強い民衆を作る。正義のために「闘う」ことができない、精神的な奴隷に成長させるのだ。同時にそれは自分が命をかけても守るべき価値のあるものを見失わせる。自分にとっての「自由」の本質をもわからなくさせるのではないだろうか。自分を裏切り続ける卑怯者は、生きる意味をも失う。
◆憲法が規定する「言論の自由」などの基本は、政府や時の権力者に対する「守るべきもの」、「自由」や「正義」に対する抵抗権にあるが、まさに人として「守るべき自由」の理解が前提となっている訳だ。会津武士の教えにも「ならぬものはならぬ」というものがあるそうだが、屁理屈や利害、計算できる損得でなく、人として守るべき絶対的な価値が存在することは、洋を問わずして人類に普遍的な遺産であることは認めるだろう。命の大切さ、人の尊厳、人の道から外れる行為は恥ずべきものとしてあらゆる文明が共通に持っている。
人にはそうした絶対的な戒めと「真・善・美」といった普遍的な価値があることを世界共通の哲学、倫理、道徳として継承していかなければならない人類の義務もある。だから「正義」や「名誉」という「品格」が国家にも個人にも備わってくるのだというのが、藤原さんの結論でもあるのだろう。民主主義を守るには傍観者は卑怯者であり、お任せ民主主義などしょせん「正義」のないまがい物なのだ。
■壊れていくコミュニティとやさしさのゆくえ
◆こどもの日の読売新聞で、上野公園のホームレスに12年間炊き出しをしているボランティアの韓国人宣教師の話が出ているが、支援するボランティアとされるホームレスでなく、その周りの市民の反応がこの6・7年で様変わりしているという。以前は「大変ですね」と声をかけてくれたり、カンパをする人たちがいた。それが「邪魔だ」「そいつらは死んでもいいんだ」というようになっているというのだ。また、東洋大の中里先生の日本人の利他心に関する子どもの調査で、ゲームに負けた子に対する思いやり指数が、80年代後半以降急激に減っている例。足の悪い作家のマークス寿子さんが電車内で、席を譲りかけた子どもに父親が「お前も疲れているんだから余計なことはしなくていい」ととめた例を挙げて「弱い人たちへの思いやりを日本の人たちはなくしてしまったのでしょうか」と問う。今の団塊の世代の子ども達は「故郷喪失者」と呼ばれる。そのまた子ども達は「心のふるさとを失った」とも言われる、心が荒廃している「自尊世代」だと呼ぶ学者もいる。
◆私たちは豊かな高度経済成長とともに、地域コミュニティが崩壊し、社会が流動化、情報化する中で引き継ぐべき相互扶助の社会規範、利他の精神を忘れてきてしまったのだろうか。ここ数年で地方の商店街や零細企業は閉鎖され、地方経済は破綻し始めている。田畑、山林が急速に荒廃しているように見える。田んぼは1年間休耕田にすると再生するのに2年半かかるとも聞く。再生には時期と時間とやり方が必要だ。一方戦後60年を経て、暮らしを支えてきた守るべきもの、受け継ぐべきものを見失っていることに気づかなければならないことを人々は実感し始めているように思う。コミュニティを再構築するためには、この時代に合った社会的な規範を再構築する必要がある。今、子ども達と共に手を打たなければ、環境の荒廃は取り返しのつかない心の荒廃へと広がり、殺伐とした暗い社会しか見えてこない。そのためには何をどうすればいいのだろうか。
◆人類の叡智には、人が命がけで守らなければならない「絶対的価値」を教えている。それに対して、ある民族や国、その時代の権力や経済的な価値や豊かさは「相対的価値」である。ある家族が、みんなで楽しく住むために建てた住宅が、完成と同時にその借金が原因で両親が離婚、家族が崩壊したとすれば、家の新築という目標は何だったのかと思うだろう。貧乏でも汚い長屋暮らしでもいい、家族が仲良く楽しい生活をすることが本来の目標だったはずなのに、家を建てるために両親が夜遅くまで働き、かぎっ子の娘や息子がさびしい思いをし、家出や同棲で家に住まなくなったとしたら、その家族のいない新築の家には何の意味があるのだろうか。まさに本末転倒のマイホームという結果である。家族が誰もいなくなった居間で、亭主であり父であったはずの「裸の王様」は、家族を守れなかったことをどう悔やむのであろうか。
◆家族が家族として楽しく一緒に暮らすというのが「絶対的価値」とすれば、家を建てるというのは「相対的価値」に過ぎない。もちろん、生活向上は間違いでなく新築のマイホームを手に入れ、その家で今まで以上に仲良くいい家族の生活ができるのが理想だが、それが難しくローンに追われ、お父さんは毎日の残業、お母さんはパート、こどもは遅くまで塾通いなどで、時間のすれ違いや家族の団欒がないのが現実とすれば、どこでどうその理想と現実のギャップに折り合いをつけるか、家族一人ひとりが納得して、お互いが理解し、いたわりながら暮らせるか、すれ違いの生活でもコミュニケーションをどう取るかのアイデア、それが理想主義的現実主義の方法なのだと思う。
◆世間から見れば羨ましい理想的な家族や生活に思えても、その中に暮らす実際の家族の全てがどう感じ、どう納得しているかが現実問題としては重要なのである。親だけの思いでなく、子どもがどう受け止めるかも斟酌する必要がある。見栄や世間体が家族の優先価値ではない。理想にどう近づけられるか、家族のコンセンサスを得ながら、現実の一日一日を大切に暮らさなければ、時間は後戻りできないことだけは確かであり、家族というコミュニティを守れないようではあらゆるコミュニティは維持できない。これはマンションなどの共同住宅や地域コミュニティ、地方自治体や国家も同様ではないだろうか。
■全会一致の市民活動民主主義
◆最後に、民主主義の決め方についても問題を提起してみよう。個別に様々、多様に見える相対的な価値も、弱いものも草木といった声なき存在も含めて命あるものへの絶対的な価値に比べてれば同じに見えるのではないだろうか。あらゆるものへの命の大切さを思いやる共通の理想は、共通の原理として現実を変えていく力になる。そのことに覚醒すれば人は現実をお互いの理解の上、十分に納得した上で変革することが可能だろう。本来の民主主義は効率的な賛否での多数決原理ではなく、こうした相互理解、共感を前提での合意でなければならない。十分に議論し、納得することでの全会一致の昔のムラの寄り合い民主主義が、本来のコミュニティを育てる民主主義だと思う。つまり、理想と現実をどうお互いが理解や譲歩、我慢の中でコミュニケートできるか、そのプロセスを共有することこそ「共に生きる」意味ではないだろうか。
◆利害が対立し、立場が異なる人間が、それでも絶対的な共有すべき価値のために現実的に協働しなければならないとき、民族、宗教、イデオロギーを越えて一致団結することが出来るとするならば、それこそが理想的な民主主義だ。旧約聖書にあるノアの箱舟のように、宇宙船「地球号」に乗り込むあらゆる命が寄り添って生き残る目的がある。そんな危機的な状況が来る前に、人類はその方法を見出すことが出来るのだろうか。「戦争」「議論」という戦いの方法でなく、八百万の神を受け入れるという日本的な「寛容」の精神は、市民活動の基本でもある。昔、フィールドワークで納得のいかない古老と折り合いをつけるには、夜を徹してとことん酒を酌み交わし、「もうわかったお前に賛成する」というやり方があった。「ムラの寄り合い」は概ねこんな民主主義の手法を持っていたが、市民活動でもそれは生きている。これは手段のようでありながら、これ自体がコミュニティを構築する手法でもある。
◆違いを認め、理想を求めつつも、現実的な妥協点を見出す協働作業の中からしか民主主義は育たない。安易な妥協でなく、人間としてしっかりとした価値観を持った品格こそ、その民主主義社会を構成する社会人の素質といえる。市民社会がそこまで成熟するために、ますます環境、教育、福祉をきちんと学ぶ「市民教育」が重要になってくるのかも知れない。憲法改正、教育改革と迷走する時代に、市民活動は様々な活動を通して民主主義の学校として理想主義的に現実を変革することが出来るだろう。そうなれば、人類はもう少し長生きが出来るのだろう。今日の課題は、地球そのものを絶対的価値として人類共通の解決策のために知恵をしぼらなければならない時代にあることだ。それを身近な活動を通して実現することこそ、市民活動(NPO、NGO)に他ならない。それが私の考える「人類の希望」なのかも知れない。
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