No.22

特集「環境問題と市民活動を考える」

 

 

 

地球温暖化防止と市民エネルギー

 

  【編集前記】
 6月は環境月間だ。特に6月5日は「環境の日」「世界環境デー」だ。「環境の日」というのは環境省によれば、『これは、1972年6月5日からストックホルムで開催された「国連人間環境会議」を記念して定められたものです。
 国連では、日本の提案を受けて6月5日を「世界環境デー」と定めており、日本では「環境基本法」(平成5年)が「環境の日」を定めています。
 「環境基本法」は、事業者及び国民の間に広く環境の保全についての関心と理解を深めるとともに、積極的に環境の保全に関する活動を行う意欲を高めるという「環境の日」の趣旨を明らかにし、国、地方公共団体等において、この趣旨にふさわしい各種の行事等を実施することとしています。』

 戸田市の市民活動では今年は6月10日に、「エコライフDAY」という2万人以上参加のイベントがある。市民活動では市内最大規模のイベントでもあり、幼児から小中学生、老若男女が参加する。また小中学生には謝礼として参加記念に戸田の地域通貨「オール」が配られることから、その後の交換会の企画や地域通貨の環境基金といったユニークな活動が評価され、埼玉県から「第8回さいたま環境賞」という県民大賞を頂いた。
 現在のところ市民活動支援センターでは7月1日に予定されている「開設1周年記念イベント」の準備で追われているが、この特集では1周年を記念しての市民交流の話題はあえて7月にさせていただいて、今月は環境問題に関連して「市民エネルギー」に焦点を当てさせてもらおうと思う。
 

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地球温暖化防止にはエネルギー問題を考える必要があ

様々な国際会議や環境白書から、地球温暖化が及ぼす影響は確実に人類の危機が迫っていることを警告しているが、10年後、20年後を想像できる力が不足しているのか、まだまだ危機感は足りない。その警告すら実際にはまどろっこしいほどのんびりしているのかも知れないのに、だ。すでに海岸線が後退し、畑や井戸が海面の上昇で塩害被害を受け始めて居住できない島が出ている。急速に太陽光線の人的被害や砂漠化が進行している国もある。それなのに京都議定書の目標達成すら不可能であると、カナダが離脱した。むしろカナダのようなエネルギー先進国の方が、良心的、現実的なのかも知れない。現状の各国の政策では確かに今の温暖化は止められず、あとで目標達成ができないとする国が続出するのは明らかだろう。先進国世界の政治家や官僚という、彼らにとっても目標値という国際公約の達成への想像力や意思が不足しているのだ。

環境破壊の一番の要因は、人類が使うエネルギー消費方法にある。そして、様々な戦争や紛争の多くは人類のエネルギー争奪戦にある。前回のイラク戦争はエネルギー戦争の代表だろう。アメリカにとって同じ核問題で、北朝鮮よりイラクを攻撃しなければならない背景が「石油」にあることは明白である。様々なエネルギーの利権は先進国の政策に影響し、日本がシーレーン防衛で軍事大国化しようとしているのも石油確保にあることも常識だ。それは一方で「食料問題」とも関連する。石油と同じように先進国の多くは相変わらず「帝国主義」的に後進地域を従属的な自分たちの農場や牧場としてプランテーションとして捉えているのではないだろうか。日本の食糧自給率も同様だ。自国で生産するより安い食料やエネルギーを確保するという「世界資本主義」戦略で蠢いている「多国籍大企業」は、地域の生活を破壊するのと同じようにいまや地球そのものを破壊に導いていることに目覚めなければならない時期だ。

しかし、その戦略を支えてきたのは消費者である「市民」であり、そのライフスタイルにある。つまり、私たち一人ひとりがどう生きるか、何を食べ、どう動くかという「生き方」が、企業や政府の生産やエネルギー政策を決定し、地球の、人類の進む方向、「行き方」に深く関わっているという認識を持たなければならない時代なのだ。私たちは単に与えられた商品を消費しているだけでなく、また、環境破壊の被害者だけでなく、明らかに生産を支え、環境破壊の加害者として生活している。まさに「天に向かってつばを吐いている」私たちに災いは降ってくるのである。


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バイオマスという代替エネルギーだけでは解決しない環境問題

「環境問題」「食糧問題」「人口問題」と何か問題が起こると対処療法的に「代案」が考えられる。最近、政府が言い始めている「バイオマス、ニッポン戦略」などもオールタナティブな政策、代替エネルギー開発といえる。日本の文化や情報はアメリカ一辺倒で、ある意味「鎖国」状態のところもあるが、ヨーロッパや南米、インドなどの代替エネルギーの情報などはようやく最近になって話題になってきた。フィンランドなどは国内の20%近くが生育の早い葦のような雑草からセルロースという植物性のエタノールガソリンを使用、つまりバイオマスエネルギーによって石油依存から転換していることや、ドイツのベンツの多くが植物油のバイオマス燃料のディーゼルエンジンで走っていることなど、まだ知らない人も多い。同時に、バラ色に見えるブラジルのトウモロコシによる「バイオマスエタノール(ガソリン)」が、主食とするインディオたちにとって「石油」に取って代わられる世界のエネルギー争奪戦という「食料危機」に直結する問題であることにようやく気がつき始めているレベルだ。バイオマスは、一方でエネルギー以前の「食べる」という生存の危機が起こり得る可能性も持っている。現状の開発では、先進国のエネルギー問題が後発の国々に被害を及ぼしかねない構造には何の変化もないのだ。

★まず私たちは「人類的な危機」が対処療法的な発想では解決できないことを知るべきだろう。「人類」の一員としての「市民」がどう生きるか、その根本的な「思想」や「哲学」を土台に確立し、ライフスタイルを変革する。その上で、初めてこの危機的な課題が克服できる「戦略」が検討できるのだ。まさに「論理」を展開する前提としての「人類倫理学」といった視点が不可欠なのだと思う。エネルギーは単にクリーンなエネルギーを開発すればいいといった話ではない。もちろん、実効性の伴う行動が重要なのだが、その前提となる「生き方」の考え方にポイントがある。その前提に立った生活様式や生活文化の見直しが大切なのだと思う。

★地球温暖化の原因が人類の生活に起因しているのは仕方がない。むしろ、焼畑や稲作による緩やかな温暖化がなければ今頃の地球は氷河期だったという地球物理学者の話は確かだろう。人類の進歩、石油を使うのも決して全否定するものでもない。地球温暖化を防止するには、石油依存の大量生産大量消費をセーブして、植物を増やし、木を植えようという人類的運動で可能だと楽観的に考えることもできる。アマゾンの原生林があと40年で消滅するとか、石油の埋蔵量は現在のペースで消費すると40年後には枯渇するとかの意見には、科学的根拠がないと論争することもできるだろう。対処療法のエネルギー開発でも、バイオマスの課題をクローズアップして、問題ありとして否定する研究者も出てきた。確かに現状での乱開発が進めば新たな「食料危機」が石油争奪による貧困問題以上に危険な方向に進みかねないのも理解できる。
 

 

「人間」という人類の生き方の基本は?

★日本人にとっての根本的な問題は、私たちの依存しているエネルギーと食糧のほとんどが外国からの輸入にあることだ。もちろん、「人」という文字の成り立ちにあるように、お互いが背中をもたれながら、「人間」というように他者との共存、助け合うことでしか人類は生きていけないのであり、全てが「自給自足」で生きていかなければならない訳ではない。いまこそ「相互扶助論」が重要な時代になるだろう。しかし、それにはお互いの利得や「信頼」が基本になければならない。「利己」ではなくお互いが「利他」を基本とすることだ。知り合いの宗教家から聞いた話だが、死者の食堂で「地獄」では自分が食べようとするとお箸がどんどん伸びていってはさんだ食べ物が口に届かなくて食べられない。何回挑戦しても皆飢餓状態で、孤独に飢えに苦しんでいる。ところが「天国」の食堂では伸びていくお箸を目の前にいる他者の口に向けて食べさせる。今度は相手の箸が自分の口に食べ物を入れてくれることで、相互に食事をすることができるそうだ。さすが仏教にはすばらしい教えがあるなと感心した。

★これには政治的な利己主義と「お任せ民主主義」という、相互依存とは違うレベルでの「市民政治」のあり方が関連しているのだが、今回は省略しておこう。ここではともかく世界的な分業化でお互いが「信頼」と「理解」を前提に、計画的に依存しているとは言い難い現状に関して問題を提起しておくのにとどめておく。アフリカや南米の人々の飢えや死の上に立ってしか生きられない今の先進国生活があるとすれば、それは「共に生きる」人類的な視点が欠けている。最近話題の例えば中国産の薬品、食品被害、ドックフードや風邪薬に有毒なまがい物が混入して死者やペットに被害が出ている事件がある。輸入の際のチェック体制の甘い南米で被害者が出ているが、日本でも「中国野菜を洗っているだけで手が荒れるからやめた」と言っていた八百屋さんがいる時代もあった。つまり、ここで「命」の大切さが視点になる。安ければいいのか、地場の産業を崩壊させても、食の安全が犯されても優先する価値があるのか。「事件」や「問題」に至る前に気づくことがないのだろうか。

★安い、便利、売れるといった価値が、その政策や生産過程で餓死者を生んだり、消費者が死んだりしたらどうなるだろう。しかし、この収奪構造は何も今に限ったことではない。南の国の楽園のような島の住民が、毎日食べていた魚や海老を、目の間に来る外国のトロール船が根こそぎ捕っていったおかげで飢えて、先進国の食糧援助で肥満になっている例や、自給自足で食えていた農地がコーヒー豆のプランテーションになったおかげで食料不足で飢えているアフリカの地域の例など、彼らの「貧困」の構造、世界資本主義が行っている蛮行のおかげで、いつでもどこでも安い食品の恩恵を受けている消費者が私たちなのだ。しかし、それも食べられる「安全」が確保されてこそだ。どんなグルメでも自分の「命」をかけてまで食べたいもの、食べなければならないものがあるのだろうか。安い労働力を求めて自国から出て行く多国籍企業、搾取と収奪の無国籍企業の商品に、本当の人類としての価値が見出せるのだろうか。それは物質としての安全だけでない、精神的な安全や安心、正義があるかどうかでもある。


 

臨界点を目前にする「エネルギーと公正」

★エネルギーも同じことが言える。最近「臨界点」なる言葉が取りざたされている。地球温暖化が緩やかなカーブを描いて危機を示しているが、ある臨界点を越えると実は急激なカーブにスピードアップし、もう後戻りも止めることも不可能になる、という説がある。私たちはもう少し本気でこの危機意識を持たなければならないのかも知れない。70年代後半に自然破壊が注目されていた。日本でも「公害問題」が大きく採り上げられていた。その頃、イバン・イリイチという思想家は『エネルギーと公正』という著書の中で、「低エネルギー政策は生活様式や文化に広い選択の余地を与える。一方、社会が高度のエネルギーを消費する道を選ぶならば、その社会関係は必ずやテクノクラシー(技術権力体制)に支配されることになり、そのレッテルが資本主義であろうと社会主義であろうと等しく不快なものとなるだろう」と予測している。それから既に四半世紀が過ぎた。
★彼は1人当りのエネルギーの消費が臨界をこえると、例え汚染しないエネルギーであっても人を精神的に奴隷化する麻薬になるという。そして「この一定のエネルギー量こそが社会秩序の限界なのである。」道というものが、人々が自律的に動き、出会う場所から他律的で排他的な高速道路になるとき、暮らしの優先は「産業化」され、エネルギー量も限界を超えての必要性をおびてくる。それは人々の「祖先から受け継いだ時間と空間の概念及び人間のペースというものについての概念が、産業によって歪められてしまっているのだ。」「その結果、彼の望むものはもはや市民としての自由ではなくて、顧客としてのより良いサービスを受けることなのである。移動の自由、人々に語りかける自由を要求するのではなくて、乗物に積み込まれる権利、報道機関から情報を知らされる権利を要求するのである。」
★地球温暖化防止の課題は、先進国がその「産業化」の限界を見極めることにある。同時に中国やインド、ブラジルといった後発の国々が先進国の文明をモデルにするのではなく、自律的発展の新しいモデルを模索することにある。そのために市民一人ひとりが地球に付加のかからないライフスタイルを考える必要があるだろう。イリイチは「自由な人間が奴隷を必要とするか否かを問題としたい」と言った。どこから変えるか、と言ったとき環境問題に関しては市民一人ひとりの考え方や行動が大きいということを自覚すべきだろう。政府であれ大企業であれ、市民一人ひとりの力の結集にはかなわない。そのことを自覚すべきであり、自信を持つべきだと思う。戸田においてもエコライフDAYの取り組みはその象徴でもある。私たちは機械や奴隷を必要とせず、自分たちもそうならない生き方を自分自身で模索しなければならない。それが地球温暖化防止の、環境問題解決のための第一歩なのだ。
★低エネルギー生活は、極端なことを言えば、徹底した管理主義、北朝鮮のような管理国家にすればいいのかも知れない。夜は10時以降テレビが映らなくする。電灯もしかり。戦中の灯火管制のような資源管理を行なう。食料や燃料は配給。こうすれば夜は静かで公害もなく、少子化に歯止めがかかると冗談を言う人もいる。それがイリイチの言うテクノクラート支配の典型かも知れない。有限な地球において無制限なエネルギー消費社会は、こうした漫画チックな管理社会を招くという予言は当らずとも遠からず、だろう。環境破壊は、必ずといってもいいほど社会的な諸関係、人間の環境をも退廃させることは確かだ。今、日本全土で、地域コミュニティは崩壊しつつある。これは都会に限ったことではない。私たち市民の「人類」としての行き方が問われているのだ。
 

 

市民エネルギーと稲穂の国・再生計画


★最後に私たちが取り組んでいることを報告して終わりにしよう。それはエネルギーの生産と消費を自前のものにするという、いわばエネルギーの「地産地消」の考えだ。それを商品として供給されるのではない「市民エネルギー」と名づけよう。都会ではてんぷら油の廃油をリサイクルした「バイオディーゼル燃料(BDF)」による公用車の使用。現状では事業系でない家庭からの廃油のわずか1%しかリサイクルされていない。家庭では凝固剤などに出費し、自治体では焼却処分に費用を出すなど、外部不経済から考えてもメリットはある。これはけっこう具体化して、戸田市でもすぐに始められるスモール・コミュニティビジネスだ。地域通貨を活用して京都議定書の数値目標を実現すべく、明日からでも、また小さな自治体でも取り組める事業だ。まさに家庭が油田になる。ただ燃料としてはディーゼルエンジンにしか使えないデメリットがある。

★もうひとつは、日本酒醸造技術を活用した米や稲からのバイオエタノールだ。これはガソリンの代わりに使える。米を食わずして燃料にするとは不届きだ、という方もいるかも知れないが、農家がやっていけず農村から都会へ一極集中を避け、休耕田拡大による山野の荒廃を救うために、あえて食料でなく「燃料作物」という考え方が重要な時代になっていると思う。そこで田舎では「燃料作物」による農家、農村の再生、全国「稲穂の国再生計画」という休耕田の作付けを事業化したいと動いている。休耕田に直播きの稲作でバイオマスエタノールというガソリンの代替エネルギーを生産し、石油という化石化燃料を使わず、地球温暖化防止に役立つと同時に、農家や農村の経営改革、合理化、協働農場化によるワークスタイルの変化、コミュニティの変革に取り組む。休耕地を水田に戻すことで土地の保水力やダム機能を取り戻し、地表の温度を下げ、微生物や自然を生き返らせることが出来る。同時に農村での産業発展が可能で、地域ごとが分権時代に対応し、自律して持続的に生きていける循環世界を作る。


★そもそもエネルギーには石炭、石油という埋蔵地下資源の化石化燃料だけでなく、再生可能、持続可能な風力、太陽光、植物性など多様にある。それは地球のあらゆる地域固有の特性と同じように千差万別な組み合わせで、地域コミュニティの個性に応じて使うことが可能なのだ。エネルギーの使い方はまさに地域の人間の生き方、ライフスタイルと同じように多種多様なのだと思う。石油一辺倒でないエネルギー開発や研究、特に自然や他の地域の人々との「共生」に主眼を置いた研究が大切だ。ハイブリットな思想はエネルギーだけでなく、地域や人間の組み合わせにも応用できる。それがなければいくらバイオマスのエネルギーがクローズアップされようとも、食料か燃料かという新た収奪戦争が勃発するだけだ。そして、いつも犠牲になるのは後発の国々に暮らす市民であることに思いを寄せることが大切ではないだろうか。基本がしっかりしていれば、何でもありという寛容こそ、市民の強さなのだと思うが、皆様はいかがお考えであろうか。

ぜひ、ご意見、ご感想をお寄せ下さい。(Y)

 

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