No.23

特集「ボランティア・市民活動支援センター開設1周年記念

 

 

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ボランティア・市民活動支援センター開設1周年記念式典

 

戸田市のボランティア・市民活動支援センターが1周年を迎えた。7月1日にその式典が行なわれ、ざっと五百人以上の市民の皆さんが参加するイベントが盛大に開かれて、まさに戸田市の市民活動の広がりとその拠点作りの幕開けを象徴するかのようだった。センター内にはITボランティアの会の準備したノートパソコン16台が所狭しと並べられ、会長の本郷さんが嬉々として対応し、お年寄りや障害者、子ども達が仲良く机を並べて学習していた。テント村では焼きそばの屋台やエコライフDAYの地域通貨交換会で子ども達が集まり、中央舞台は戸田音頭のヒップホップなダンスやゴスペルのコーラスで盛り上がって、楽しい市民祭りといった雰囲気だった。午前10時、神保国男市長を招いて記念式典が挙行された。事実上のセンター長でもあり、今回の1周年記念事業実行委員会の委員長でもある社協の青塚さんは、開会挨拶の途中で万感迫る想いがあったのか思わず声を詰まらせた。それを脇で聞いていた若い市職員までもがもらい泣きする姿を見て、今まで携わってきた方たちの顔を思い浮かべると共に、ボランティアスタッフの方たちの成長、そして、今回、センターの愛称「TOMATO」(トマト:だのちでみんなもだち)に選ばれた方の「市民としてまだ数年ですが、活動を通じて素敵な仲間ができた」という「本物の市民になれた気がする」といった挨拶の中に、それぞれの思いが実を結ぶことのすばらしさを共感するイベントとなった気がする。本当に皆さんご苦労様でした。
 

ここで青塚さんの挨拶を紹介しておこう。

支援センター1周年記念  挨拶       

「ただ今 ご紹介に預かりました 青塚でございます。支援センターではスタッフリーダーを務めております。
昨年のきょうは、このセンター設立にご尽力を下さいました市民活動推進委員会の皆様と新しく仲間となったスタッフと、支えてくださるコミュニティ推進課の皆様、お祝いに来て下さった皆様という「知る人のみ知る」所でした。
そしてただ今 70の団体と個人10名の登録をいただけるようになりました。1年を迎えるにあたり組織されましたセンタースタッフと登録団体による実行委員会も月2回からこの2ヶ月は毎週という事務局泣かせのハードスケジュールを乗り越え本日を迎えました。おかげ様で、スタッフのコーディネーターの力量がアップされたと感じます。
本日発表されます愛称は、まさしく1年間歩んできましたこの支援センターが実をもって示してきたそのものでした。また1周年記念のキャッチフレ−ズもまた、支援センターが願っている、支援センターとの出会いで、一人でも多くの方の活動で「戸田が楽しく」なることです。
今後もスタッフ一同、皆様の活動を支援できますように研鑚し期待に応えられるように、皆様のご協力のもと歩んで行きたいと思います。終わりに 実行委員一同、ますます「戸田って楽しい」を実感できる日であることを願い また、ご協力を頂きました多くの方々に感謝をして、ごあいさつとさせていただきます。」

 


市民活動支援サイト部会の任務終了と協働の歴史


実は、センター開設1周年に先立って、市民活動支援サイト部会が同じ7月に2年間の任期を終えて閉会となる。部会が終ると同時に、このサイトも名実共に「支援センターサイト」という ことで名称も統一されることになる。センター運営委員会からの「2年間ご苦労さん」という挨拶に、別の市職員から「市民サイトは委員会から含めると4年半ではないですか?」と言われて、そう言われれば戸田市の市民活動支援を、行政との協働で取り組み始めてから考えると実に5年に及ぶ歴史があることを思い出した。協働事業の第1号は半官半民の笹目コミュニティセンター「コンパル」なのかも知れないが、公民館でもなく、町内会館でもない「新しい市民の拠点を」構想し、そのネットワークの中で新しいコミュニティを醸成したいという様々なチャレンジが数多く誕生してきている。神保市長のパートナーシップという考えが、市職員、市会議員という枠の中だけでなく、 まちづくりに広く市民の懇話会や委員会が活用され、定着してきた成果といえるだろう。 もちろん、評価はこれからで、成功も失敗例もある。例えば「地域通貨で市民活動を楽しくする会(現在の地域通貨「戸田オール」運営委員会)」も4年以上の活動になる。てんぷら油のリサイクル事業 は、コミュニティ推進課、教育委員会、生活安全課、環境クリーン室、経済産業課と役所を横断してのプロジェクトのスタート も、挫折して3年が過ぎたが、最近またぞろ復活の兆しも見えそうだ。市民活動サイトについても、コミュニティ推進課独自での今日のスタイルに落ち着くまでに、地域福祉計画の中での百人委員会やIT推進室、情報統計課、秘書公報課などを交えた折衝の努力が必要だった。 素人集団で時間はかかるが、胸襟を開いての話し合いの中から少しずつ動いてきたことを実感している。面倒な仕事は増やしたくないという市役所内部の抵抗勢力はもちろん今でも残ってはいるが、政治家による行政改革でない、市民による行政改革のモデルになりそうな動きも見えている。 恐らく将来的には、この協働の歴史が何よりの財産になるだろう。
 



成果は、構築物ではなく人材


そして、このもろもろの企画や歴史の陰には、先月の25日が三回忌だった元コミュニティ推進課長のM氏の存在があったことを忘すれてはならない。 だから新しい市民や市職員の方は知らないかもわからないが、面白い市職員がいたことを語り継いでおきたい。役所を変革し、職員をやる気にさせ、市民にパワーを与える行政マンがいたことを伝説にしたい。彼の葬式が下手な政治家以上、地元の名士といえどもこれだけの弔問者が集まるのかというものだったことだけでもそれを物語っている。彼は今でも私にとっては「市役所の星」なのだ。今、なぜ彼の記憶を呼び覚ますのかといえば、市民のネットワークや拠点作りに必要なのは、もちろん、成果としてのシステムや建物なのは当然なのだが、 一番大きな成果はそれに至るプロセス、 そして「信頼」し合う人間関係ではないか。大事なのは、いくつもの議論や懇親会、ワークショップやイベントの準備などの「共有する時間」、企画などのいわゆるコンテンツと、そういった時間を共有し、それらを体現するキャラクター、すなわち集う人間・市民なのだと言いたいのだ。「志民」といってもいいかも知れない。それは恐らく戸田市にとっての代え難い社会的リソース、つまり資産であり、財産なのだ。だから人材は人財といえるだろう。各局面や各団体には必ずといって鍵になる人材の存在がある。その人がいなければ事業そのものが成功したかわからない。例えば、男女共同参画センターのパソコン倶楽部の運営をするITボランティアのサロンのママ(と呼ばせてもらっている)にしてもセンターの青塚さんにしてもその人柄がいい。彼女たちのキャラクターなしにはこうした施設の運営は理想どおりには行かないだろう。陰に隠れて目立たない存在であっても、今でも重要な人物が日夜努力している。それを忘れてはいけないのだろう。それは立場が行政であれ、一般市民であれ、想いが同じであること、そしてホスピタリティ・センスの問題なのかも知れない。誰でもができる訳ではないのかも知れない。
 


人材を育てる「支援」と「理解」


だが、今回の記念講演の冒頭で平岩幹男先生は「支援」するには相手が何を求めているのか。まず「理解」がなければならないことを教えてくれた。専門家だけでなく多くの市民が理解することの重要性を語ってくれた。例えば中越震災で、被災者が困っているから、必要だからと一方的な思い込みから大量に送られたトイレットペーパーがあり余ったり、宿泊施設もないところに勝手にボランティアが溢れたりといった、かえって現地に迷惑をかけた実例を紹介した。講演は「発達障害の理解」という内容だったが、その前後に、今回のイベントが「ボランティア・市民活動」「支援センター」がゆえの「支援するもの」の中身や理解力を再考させると同時に、市民側にも住民自治やボランティアサービスを、「理解」する、あるいは民主主義そのものを再考させる大きなヒントをくれたように思う。前書きがとんでもなく長くなってしまったが、そのことを少し考えることにしよう。
市役所5階会議室では市の医療保健センターの医師でもある
平岩幹男先生の『発達障害の理解』と題する記念講演があり、
会場は100人を超す聴衆が熱心にメモなどとって聴いていた。
※発達障害とは成長の過程で見られる問題行動、コミュニケーション
や社会適応の問題を主とする障害。精神遅滞を伴わないADHDや
ASD(高機能自閉症)など、最近の学校や教育問題で話題になって
いる。詳しくは市の広報などに講演記録が別掲されると思う。

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市民活動の活発化は、人材の養成にあり


この特集も23号になる。11号が「戸田市ボランティア・市民活動支援センターオープン!」という題で1年前の開設を特集している。(合わせてお読みいただければ幸いです)この中でも取り上げているが「戸田市市民活動推進基本方針」に基づいて4つの重点施策として「拠点整備」「情報ネット」「協働体制確立」「市民活動の活発化」が上げられてきたが、前の3点は建物やシステム、体制の構築といった成果がわかりやすい、あるいは会議の中でも作れる課題なのに比べて、「活動の活発化」というのは目に見えない、あるいは評価に苦しむもので、同列に並べるものではないのかも知れない。言ってみれば、システムや制度に対して中身、コンテンツの問題だからだ。そして、その多くは「人」の問題とも言えるだろう。だから一番の難問なのかも知れない。机上の空論で決められるものと訳が違うのだ。活動を活発化させるためには、活発に活動 できる人間を多くすることが必要なのだ。つまり市民活動家(=志民)を育てることだ。

多くの懇話会や委員会、あるいはこうした「特集」といった市民メディアを通して私が伝えたいこともその多くはそのための「意識改革」にある。この特集作りひとつをとっても、やれ小難しい、長文だ、抽象的だ、理屈っぽいというお叱りは重々承知しているが、単なるニュースならば広報でいいし、市民記者の取材を編集すればいいので、仕組みさえ出来れば簡単そうに見える。実際、編集委員の社説みたいな特集は、恐らく私が引退すれば少なくなるに違いない。だがどうしてなかなかそうした取材記者すら見つけるのに苦労している。後継者を作るためにも私はもうしばらく書き続ける必要があるのかも知れない。

拠点の建物はできた。ネットワークシステムも構築した。行政職員と市民委員会の会議も設置した。それでも市民活動が上手く「支援」でき、「活発化」するだろうか、しているだろうか。 例えば今回のイベントの運営で考えよう。私自身もそろそろ高齢者の部類に入るかも知れないが、実際にイベントで後片付けまでするのは市職員や可愛そうに高齢者の委員のおじさん、おばさんが多い。懇話会や委員会の答申や報告書、会議のセッティングも実際は市職員事務局にお任せが多くないだろうか。本当に市民が主体となって、対等な関係で「協働」が実現しているだろうか。市職員も「仕事」だから、「こんな部署に配置転換されたから、仕方なく」残業していないのだろうか。市民委員は本業を終えてボランティアで参加する会議に、果たして市職員は有給残業で参加してないか。9時5時で帰宅する他の職員を羨ましく思っていないのか、といったいくつかの疑問が沸いてくる。

今、一見すると市民活動が活発化して、NPO元年やボランティアの時代と称されることも多い。しかし、反面、多くの市民活動団体や結社が人材不足に悩んでいる。若者が足りないのだ。今は団塊の世代が社会に流入しているからもてはやされているが、彼らが現役時代に人材を育てなかったツケが、今の現場での人財難の原因だ。同じことがこのままではやがて地域や市民活動にも起こるだろう。 ボランティア・市民活動が活発化しそうな時期だからこそ、その「支援」の意味を含めて大きなビジョンに取り組む必要があると思う。

 

市民活動を学ぶのは市民活動をすること


友人のボランティアの一人が、退職後の人生を市民活動が救ったことを教えてくれた。他者へのボランティア活動が、実は自分を救う活動だったというのだ。 「人のため」が「自分のため」だという双方向の活動が、実はボランティア(自らが主体的に行なう行為)の基本なのだ。そして、NPOや市民活動から学んだことで一番大切なことは「情報をオープンにする」ことだと言う。それは「知る」ことであり「理解」することに通じるだろう。相手がわからなければ人間関係は作れない。名前もわからない匿名の相手と協働作業ができるだろうか。 だからこそ協働のプロセスがコミュニティを形成するのだ。この市民サイトがなぜ優先課題として取り組まれたかというと、インターネットの世界の相互情報発信から生まれる「知恵」「ノウハウ」は、その後に広がるアナログな人間関係の構築に必ずや大きな影響を与えるからではなかったか。一方的な「支援」が押し付けであり、自己満足の世界ではないかという反省を、ネットの活用はあっさり克服させる。それはネット社会がもたらす双方向性の情報交換にある。さらに、ネットの持つ、ハイテクの言いたい本音を言えるシステム、バーチャル、効率、非人間的なステージと、 非効率な懇談、共食、飲み会、協働といった実に人間的なハイタッチなステージとが相互に補完することでより上手く行くことは多い。と言うより車の両輪のようにその両面は実社会には不可欠だ。だから、市民活動支援サイトが一方通行のホームページ作成でなく、どうやったら簡単に情報発信ができるかにこだわったのは、そうした人間の日常的な関係の構築では当たり前の相互交流を最大の価値と考えてきたからに違いない。むしろ、日常の関係を補強し、よりスムーズにできるシステム構築を目指してきた。それが「eコミュニティ」という考え方だった。

ボランティアや市民活動の基本は、家族や肉親とのかかわりと、全くの他人の企業や行政の、いわゆる有料のサービスとの中間にある。お金や名誉のためでもなく、肉親がゆえの愛情、義務などでもなく、自らが主体的に他者との交わりの中で人のためにも自分のためにもなる活動。 その中心は「友愛」であり、「信頼」だと思う。その活動の楽しさ、面白さは実際に活動してみなければわからない。多分、それはスポーツや趣味と同じように、好きだからやれる人間活動の基本的な衝動なのかも知れない。市民活動の面白さは、市民活動の中からしか学べないのだろう。

 

双方向は当たり前でなくなっている


人間の当たり前の生活。いまそれが様々なステージで難しい局面に入り始めている。ひとつは地球温暖化による環境破壊だ。南半球の子ども達は冗談でなく外出する時は夏でも長袖、長ズボンでサングラスが必要になりつつある。梅雨の長雨による増水や台風、竜巻など天候も凶暴になってきていないか。追い討ちをかけるように政治の無策による国土の荒廃。休耕地や林業の衰退で田畑や山野が荒れている。農村の高齢化、過疎による荒廃は美しい日本どころか、自然破壊を助長している。さらにそれらは文化的、社会的な荒廃を進める。適当な人口分布が行なわれず、超少子高齢化によりコミュニティは荒廃している。地方都市へ行くとシャッター通りはもとより、街や村から人がいなくなっている。子ども達は見知らぬ人を警戒し、挨拶もできない。このことは都会でも同じだ。路地裏から子ども達の歓声が聞こえなくなってから久しい。中小企業家が嘆く人材不足は、高校や大学を出ても「まともな挨拶もできない若者」という質の問題も含めての話だ。この文化的社会的な人心の荒廃は、もうひとつの環境破壊として問題になっている。子ども達はまともに外で遊べない状況だ。食生活も含めて安心で安全な生活が出来るのだろうか。可愛いはずの孫に注意すると逆切れされるおじいちゃん、おばあちゃん。駅や街角で肩がふれたと殴りあいになる殺伐とした風景が広がる。成人式はどこかの中学生レベルの集会にしか見えない。他人をいたわるそぶりも見せない、大声で騒ぐ大学生や高校生の群れ。今、通りに出ると自分を守ることに必死になっている人々がいる。彼らは他者との交わりを極力避けている。本来、「人」「間」というように交わりの中で双方向性の中で成長するはずのヒトが、強制的に一方向へ向かわせられている。社会全体が多様で、それを許容できる余裕がなくなり、一方通行で、立ち止まることが許されない状況なのではないだろうか。 いま一番不足しがちなのが「友愛」であり、「信頼」ではないか。

 

社会そのものの発達障害


平岩先生の「診断」や「治療」に至るまでもなく、しかし、社会全体が「発達障害」を起しているのではないかと思えるのが、最近の風潮ではないか。一方で「オタクが文化を創る」という意味において、それは個性であり、多種多様な個性を尊重すべき時代だろう。むしろ現状の集団主義的な学校制度の限界も感じる。最近大手のチェーンオペレーションが機能しないことが問題になっている。働く現場で何が起こっているのだろうか。まず若者がいない。(もっとひどいと日本人がいない)マニュアルが通じない。社会人としての前提が通じない、など現場は「クレームの巣」だというのだ。労働者としてのクオリティが低下している。技術が継承されない。会社のコンプライアンスに限らず、順法思想や倫理観が欠如している。高速道路のマナーは危機的な状況だ。これだけ問題になっているネットでの情報流失を、今でも警察官や自衛官、行政職員など情報管理にうるさいはずの分野での人間がやっている。あいかわらず振込み詐欺が横行している。保護者の異常な要求、 あきれるクレーマーの増加。いわゆる「モンスターピアレンツ(怪物両親?)」は一部の学校の問題にとどまらない。社会全体の気質が「発達障害」を起しているのであり、制度やシステムが機能障害を起し始めているのではないのだろうか。

この基本は全て「おねだり民主主義」のツケではないかという気がする。日本は「水と安全、サービスはタダだ」と言われてきた。誰かのせいにしたり、どこかに文句をいい、要求すれば何とかなるという「子ども文化」が横行している。一方で、だから「お任せ民主主義」がはびこってきた。住民は「従民」であり、市民は「死民」である。 権利である参政権の行使は投票率が40%を超えないことでもわかる。政治的な無関心は、心の荒廃やコミュニティの荒廃を知らず知らずのうちに生んできたのかも知れない。政治に関心をもつほど「市民意識」は成熟していない人が多いのだろう。そうした市民教育も、制度も時代に追いついていないと言えるのかも知れない。
今、地球温暖化や環境破壊の問題を考えてくると、食料、資源やエネルギーの分配の問題にぶつかる。そして、それは必ず社会秩序やコミュニティの課題、人間の生き方の問題へと行き着く。つまり、いかなる「支援」も人間の自律的意志や機能を阻害し得るような形での「要求」とは相容れないものでなくてはならないのではないだろうか。簡単に言えば、きちんとコンセンサスが得られるような、言い換えれば時間はかかってもみんなが納得できるような「要求」でなければ「支援」しなくてもいい。仮に「モンスターシティズン(怪物市民)」のような要求は断固拒否するくらいの気骨を市職員なども持つ必要はあるが、それは自分も身を挺して自律的に活動できる一人の「市民」としての自覚や自信が必要なのではないかということだ。社会そのものの発達障害に対しては、やはり「理解」と「支援」を前提にした「教育」が重要なのだ。 「発達障害」の治療の根本は「自信」を持つことにある。それは「自律」から生まれてくる。

 

市民教育の学校が市民活動―成熟した市民社会を求めて


お互いがそうした立場になることがあって初めて「支援」という意味が理解できるし、「支援」されることが「要求」でなく、素直に受け入れることもできるのではないかと考える。そして、そうしたトレーニングもまた協働作業の中からしか体得できないのではないだろうか。つまり、市民活動やボランティアを理解できる かは、市民活動やボランティアの体験しかなく、ボランティアや市民活動家が増えれば、自然にまちづくりは活発化し、街の治安はよくなり、住みやすい街になることは間違いない。ボランティアの数と街の安全、治安の良さは比例するというデーターもある。要するに、「市民活動の活発化」という施策を実現するには、 例えばまず市職員の中からボランティアをいかに多く出すかという体制内施策にかかっているということだ。自らの組織や団体から出せずして、なぜ他の人々に呼びかけができ、要求ができるのか。民間企業でもその社会的責任論から従業員にボランティアをどれだけ参加さ せられるかと創意工夫している。これは各学校でも、町会でも、あらゆる組織が求められる課題であるだろう。

簡単な提案としては、まずは税金で食を得ている身分としての公務員に年間何十時間かのボランティアを義務付ける。 公務員は「市民=志民」の模範たる存在だと思う。そして、大学や高校では単位に認定する。企業は社会的責任論から企業貢献として認める。評価する。町会や老人会では顕彰するなどして、とりあえず各組織、団体独自で規定して参加数を増やすことだ。一見、強制的でボランティアの趣旨に反するという意見はあるだろう。そうしても反発して効果がないという意見もわかる。しかし、外国の例でも、軽犯罪者にボランティアを義務付ける刑罰もある。そして、恐らくボランティア体験は、今までの話にも見られるようにその人の考え方に大きく影響を与えると信じている。ボランティア活動は、ボランティアを自律的に行なうこと、自分たちの組織として決める力があることを再確認することで「理解」力を高め、他者への「支援」の意味を考えさせ、最善の民主主義の学校となるだろう。今、「市民教育」が人生のどこの段階でもなされずに実社会に出されてしまう世の中だが、 「市民」「まちづくり」を学ぶ市民に証明書を発行する。ボランティア体験者や市民活動家にインセンティブ(ご褒美)を出す。こうして自動車免許と同じように、市民免許が持てるようになれば、今までのようなただの住人、行政単位の市民ではなく、市民社会の一員としての理解と、自分がなすべき行動を理解した「志民」と成長する。もちろん、早い時期に学校でトレーニングが受けられるのに越したことはないが、当面、地域社会の大きな構成要素の市役所や学校の教師に導入することがいい結果を生むのではないかと思う。 まずは知ること、理解することから始まる。

医療としての「発達障害」の問題は、「理解」と「支援」であり、そのための「診断」の精度の向上や法律の整備、治療法などの研究が重要だろう。それと同じように社会心理的な発達障害には、やはり対処療法的に法律や道徳といった社会秩序のルールの再確認、再認識が重要かも知れない。リストラクチュアリング、リエンジニアリングと「改革」が流行であり、それが最近の一連の社会的な動きでもある。少年法や商法などの改正、様々な制度の見直し、役職の再確認があらゆる分野で行なわれている。だから今までの当たり前、暗黙のルールが明るみに出され、再構築されている。時には組織の内部告発が行なわれ、悪徳企業が社会問題になり、官庁が槍玉に上がっている。市民生活でも、例えば最近、自転車事故の多発から警察が法律を読み直し始めた。道交法で自転車の違反は取り締まれる という。しかも即罰金刑しかない。恐ろしいことにかえって自動車のように反則金で済むことがない制度なのだ。それがありながら暗黙のうちにどんな違反でも、マナーが悪い程度で済ませてきた。しかし、これからは自転車であっても右側交通や2人乗りは逮捕できる。「知らざるをもって知らざるを得ず」でなく、自転車に乗る以上は市民教育として学ぶ必要がある時代なのだ。日本ほど酔っ払いと子どもに甘い国はないといわれるが、酔っ払い運転の厳罰化。いじめや援助交際などと意味不明な言葉でなく、恐喝、暴行傷害、売春と法律で処罰すべきではないだろうか。それが法治国家であり、法律もきちんと理解することこそ市民の義務である。権利を主張する前に義務を学ぶことこそ、市民社会を理解する早道だと思うのだが、さて、また過激な意見と叱られるだろうか。ご意見をお待ちしている。(Y)
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