No.06 特集「市民活動を考える」
市民活動を取り巻く
           環境

     
戸田市では地域通貨「オール」を使って市民活動の活性化に挑戦している。

 最近よく耳にするのが「2007年問題」。いわゆる団塊の世代が大量に退職することによる、地域社会の受け皿作りやボランティアによる活性化などの話題だ。これには期待も含めて、いくつかの問題や市民活動そのものを考える材料が提供されているので、今回はそのことを考えてみようと思う。

            
NPOが作った戸田駅高架下の「お休み処」でのゴスペル演奏。

市民運動と市民活動

 まず、そもそも「市民活動」という、政治・経済でない、生活者の視点からの地域社会での活動が、どう定義されているか。戦後の思想的、あるいは60年、70年代安保の学生運動やその後の公害問題を中心とした「住民運動」との違いは何だろうか。人間の対立は思想・イデオロギー、人種、宗教から発することが多いが、民衆・住民・市民運動のほとんどは、政府や行政とそこに暮らす人々の二項対立といっていいだろう。もちろん、それは政治的、経済的諸問題と重なっている。
 現在でもそれらは大きなテーマであり、不可分な課題を負ってはいるが、高度経済成長、一億総中流社会を実現する中で、それらは「運動」から「活動」へと変質してきた。同時に、政府や行政そのものが、冷戦構造の終焉から行財政構造改革、自立型社会といった市民活動による補完を前提とする「小さな政府」へと変革しなければならない時代になっている。冷戦構造の終焉は、共産・社会主義と資本主義という大きな枠組みを変え、ユーゴのように封印されていた民族対立やイスラム圏台頭のような宗教的対立を復活させてもいる。一方で先進国の多くは、政治的に「新しい公共」といった民主主義の進化や経済的にも新自由主義の登場という、対立していた二つの側面からの必要性でお互いが歩み寄り、現代のような「協働」事業を地域社会に育む舞台は整ったといえるのかも知れない。
 まさに21世紀は、新しい公共を考える市民活動の時代、ITを活用したeデモクラシーの時代なのだろう。官民学の総力戦で地球を守り、暮らしを守るために地域資源を発見しなければならない。多分、市民活動そのものが人間の生き方として必要な時代なのかも知れない。また少し堅いが、この特集で、私たちが「地球市民」となるための現状分析と展望が示されればと念じている。

     
      子どもたちに大人気の「埼京戦隊ドテレンジャー」

信頼喪失社会とコミュニケーション・システム

 さて、そうした背景を踏まえて、地域社会の問題点、行政の課題、主体としての市民の問題という3つの視点から考えてみよう。年末に朝日新聞が3回に渡って「信頼喪失社会」という特集を組んだ。1回目は消費社会研究家の三浦展氏と東大大学院教授の中尾政之氏の話。第2回が、作家の高村薫氏と北大大学院教授の山岸俊男氏。3回目が僧侶で作家の玄侑宗久氏と国際日本文化研究センターの安田喜憲氏の話であった。彼らの話をヒントに問題を整理しよう。
 『下流社会』の著者である三浦展氏は、この20年で、新しい道路、ニュータウン、ファミレス、大型商業施設などからなる画一的な生活環境が日本中で拡大したことを「ファスト風土」(フードにかけている)と呼ぶ。それはその地域が固有に持つ、歴史や自然とは無関係な、現実感のない空間として、地域社会が安定性を失い、流動化、匿名化し、犯罪が起きやすい現在の日本の風土に変質させていると指摘する。ファスト風土は古い共同体を崩壊させながら、新しいコミュニティを作らない。流動化と匿名化は、コミュニティの基礎である人間同士の信頼関係は築かない。さらに、そうした動きは実体験のない、地に足のついた現実感覚でなく、現実もゲームのように感じる人間が育ち、今の情報化はそれを加速する。同時に、社会の構造的な変化として、上流化、下流化、あるいは勝ち組、負け組みという階層化が固定化し、交流もなくなっていく。それぞれが同質の人間関係の中でしか、子ども達は育てられなくなっている。つまり、地域コミュニティーの中で、様々な人との交流の暮らしの中で形成される、信頼関係が醸成されないといえるだろう。古い共同体が崩壊し、新しい職場や学校といったコミュニティが、その代わりにはなり切れなかったのだ。

      
戸田市のIT活用は埼玉県第1位。NPOやボランティアのパソコン倶楽部も活躍している。ビリーブでは誰でもが使える公衆無線LANが市民の手で運営されている。

 では、新しいコミュニティはどうすれば作れるのだろうか。彼は「我々が信頼関係を再構築していくためには、人間がただ消費だけをしているファスト風土ではなく、人間が働きながらつながりあう場としての地域社会が、もっと再評価されねばならない。もちろん、古い伝統に縛られることはないが、「人の顔が見える街」という地域社会本来の在り方を見直す価値はある。人間同士の最低限のコミュニケーションすらない街をコミュニティとは呼ばないからだ」と言う。そして、具体的にはコンビニの店員にでも「ありがとう」と言葉をかけることを心がけているという。声をかけられることで「働いていてよかった」と思うかも知れないような、小さなことを続けていくことが大切なのだというのである。
 東大の中尾氏は、話題の耐震偽装問題を例にとり、高度な技術によるコンピュータやソフト開発によってブラックボックス化されたシステム社会の中で、そのシステムをストップできる判断、最終権限は人間の側になければならないという。ヒューマンエラーはパソコンが防ぐが、「その上で、システムが社会に決定的な損害を与える危機では、人間の柔軟な判断を優先する。両者の力を総合する知恵が必要になっている」ことを指摘する。話は違うが、以前、ある私立学校の校長が面接で「だれを合格させるかの最終判断は、その学校の見識だ」と言ったことがある。その裏にはその学校を好きで、第一志望の生徒は必ず伸びるという信念があった。いやいや入学する第二志望の生徒より、1回の入試の点数が5点低かろうが、その生徒を伸ばす、その学校を伸ばすという両者の力が、学校コミュニティの形成には必要だというのだった。ここでの結論は、ファスト風土ではなく、スロー風土の体験ができる多様な人々との交流という市民活動が新しいコミュニティを形成する土台であり、必要なのはITシステムと人間の主体的な決断という両者の力を総合する知恵なのだ。

     
        荒川を活用するeボート試乗会

個人と集団の新しい公共


 このことは次の行政の課題への問題提起になっている。最近、行政の仕事を民間に移すことが積極的に進められている。PFI方式や指定管理者制度などマスコミでも話題だ。小泉内閣の「民にできることは民に」といったスローガンや「市場化テスト」など聞いたことがあるだろう。そうしたNPOや民間に委託できるかどうか、プロポーザル方式や入札で役所の人間がどれを選ぶか「自分たちの見識」を堂々と胸を張って語れるだろうか。評論家的な判断でなく、最後まで責任をもった決断ができる人間が重要なのだ。知識だけでなく知恵のある決定は、最終的には行政マンでなく政治家の仕事なのかも知れない。同時に、雪印やJR西日本、NHK、マンション耐震強度偽装など公共性を持つべき「個人と集団」の中の信頼喪失を問題にしたのが2回目の特集だ。
 高村氏は「企業はもちろん消費者も、公共性を再認識しなければならない。それが利益と安全性の折り合える地点を見出す第一歩だ」と公共の概念が失われていることを指摘する。現代人は、インターネット以前からテレビというメディアによって社会という広がりを身体で実感できなくなった。電車のなかで化粧する人は、自分にとって周りの乗客は人間ではなく、影に過ぎない。そして、「これは個人の問題ばかりではなく、企業の公共性の欠如とも通低しているだろう。社会の中でその企業がどういう位置にあるのか把握するまなざしを持てないから、安全性がおろそかにされるのだ」という。いま私たちが取り戻さなければならないのは、自然や社会の中での自分の位置、存在意義(アイデンティティ)であり、高村氏は「言葉」だという。つまり「言葉の機能が失われているから、社会的な広がりを実感することができないのだ。世界がどんな姿をしているか、自分は何を感じ、考えているのか、それをとらえるのは言葉」であり、コミュニケーションの中でしか人間の位置は計れない。
 現代は何千年もかけて人類が築いてきた社会の仕組みを退化させるターニングポイントにあって、それは「自己責任」という言葉に集約できるという。「人間は一人では背負いきれないものがあるから、社会が代わって保護をする仕組みを築いてきたのではなかったか。なのに年を取るのも、病気になるのも、個人の能力の差も『自己責任』なのか。社会全体が少しずつ助け合い、何とかみんなで暮らしていこうというのが人類の知恵だったはず。」それは「全体に目配りするのは面倒だから、自分のことだけ考えようという態度」であり、現在の福祉行政の問題点ではないか、同時に政治の貧困、地域社会の課題なのではないか。個人の力だけではできない課題こそ、公共性の、安心社会の問題に他ならない。
 北大の山岸氏もそうした「安心社会の崩壊に直面」しているのが今日だという。それは一方で従来の閉鎖的な社会では得られない「機会」が広がり、自分の所属する集団の外にインターネットで新しい「出会い」や「信頼」を得ることも可能な社会でもあるという。それには「とりあえず知らない人を信頼しながら、本当に信頼できるかどうかを見極めていく能力が必要だ。」大学の実験では「信頼度」が高い方が適切にリスクを避けることがわかっている。ただ信頼社会の構築には、個人的な能力だけでなく、「透明性の高い情報を提供する社会的なシステムの整備も不可欠だ」とする。

 
街の象徴、NPOの戸田の川を守る活動や調査も盛んだ。

「やおよろず」的寛容な心


 情報が多すぎると判断停止で教条主義的、原理主義的に行くか、多元性や多様性に寛容になる方向で行くかといわれるが、特集の最後に、僧の玄侑氏と環境考古学者の安田氏は、合理主義一辺倒に疑問を投げかけ、日本古来の「やおよろず」的な多様な価値に対する寛容性を語る。玄侑氏は、目標の独り歩きや対処療法に翻弄される社会に対し「本当に大事なのは取り決めではなく、取り決める時の状況」のはずだという。それに関して例をあげてみたいのは「個人情報保護法」と市民活動に関する朝日新聞社の世論調査だが、それは後回しにしよう。彼の趣旨は、例外的な出来事にも揺るぎないシステムが、かつての日本にはあったこと。それは「やおよろず」的な、いろいろな価値観の並立を認め、今では欠点のように言われる「あいまいさ」「ゆらぎ」を許す寛容心、禅の「遊戯(ゆげ)」や自然体としての身体性にあるという。この社会に必要なのは、自分と違うものを「お前も面白いね」と言って笑い合う態度、「自分とは違う習俗や思考法に対して寛容な心のあり方ではないだろうか」というのである。
 安田氏も、現代は「欧米型」の限界という文明の危機的状況であり、それに対抗する、縄文時代をルーツにする「日本人は古来から、森や水を大切にし、他者を思いやり、自然とともに生きていた」はずであり、その日本の歴史の再学習を提唱する。そして「地球環境の破壊はグローバルだが、それが人々の生活に与える影響は、極めてローカルなものだ。このローカルな視点があって初めて、解決すべき問題が身近な人肌感覚でとらえられるようになる。いまや市場原理がグローバルな価値を持ってしまっているが、これにローカルな視点を加えた独自の『グローカル』な発想を持たないと、文明の危機は乗り越えられない。」生き残るべき優しさ思いやりの文明を世界に発信することこそ、これからの日本の役割だというのである。

 こうした市民活動を取り巻く状況の中で、最終的な問題は、2007年に始まる団塊の世代のリタイアと地域社会への影響。そして、個人情報保護法に代表される「匿名社会」への強い不信感、暮らしにくさだ。言い換えるならば前者は市民活動の担い手、後者は行政に代表されるシステムや組織の過剰反応、顔の見えない、市民活動を推進させない問題点となるだろう。そのことを問題提起してこの特集を終わることにする。

     
戸田市では各市民団体のイベントも盛ん。市民のお祭りも活発だ。

匿名社会とソーシャルネットワーク

 大量の団塊世代が職場コミュニティから地域社会に放出される。日本では今までも「ボランティア教育」や「市民教育」がなされていたとはいい難いが、知的で理屈っぽく、言いたいことはきちんと言う「埼玉都民」が退職して、肩書きがない経験に戸惑いながら、市民活動やボランティアに参加することでの混乱は予想できる。受け皿作りにボランティア・センターや市民活動推進センターが各地で検討されてもいる。ただ、何か問題が起こったとしても上記の理解で前向きに取り組むことで、地域社会を変えていくきっかけになればと楽観的に考えられるだろう。彼らが市民活動へどんどん参加することで、地域社会の政治や経済への参画の仕方も変わるだろうし、当然、活性化もするだろう。市民活動がコミュニティビジネスとして、新しい展開も期待できる。
 むしろ、問題は、犯罪や安心・安全なまちづくり、防犯体制や個人情報保護を名目とする、教条主義や原理主義の台頭ではないだろうか。現実に、朝日の世論調査では、過剰な個人情報保護の扱いで「社会のつながりが分断」され、「息苦しさ感じ始めた」結果が出ている。学校の連絡網がなくなり、防災弱者の情報が出されず、一方で懲戒職員や犯罪者の顔や氏名が秘密になり、より匿名社会が不信感を増幅している。そうでなくとも日本人は、お上意識に弱く、法律ができると過剰に反応したり、自己規制してしまう。立法の趣旨とは異なった運用やコミュニケーションが取りにくい状況を加速しないか。おかしいと感じる人が8割、暮らしにくいと感じる人が6割になる状況で、十分なコミュニケーションを取れるような市民活動が発展できるのだろうか。
 そこで活用できるのがIT(情報技術)、あるいは最近はICT(Information & Communication Technology 「情報とコミュニケーション技術」)と呼ばれるものだ。この市民活動支援サイトもそのひとつだが、インターネットを活用した様々なシステムが発展している。代表的なのは、電子メールやメーリングリスト(一斉にメールを交換する仕組み)、このサイトのようにみんなが情報を掲載できるCMS(コンテンツ・マネージメント・システム)を採用するホームページや日記のように個人が書き込む「掲示板」や「ブログ」など、聞いたことがあると思う。そして、最近話題なのが「ソーシャルネットワーク」という仕組みであり、考え方である。もともとインターネットは、テレビなどとは異なり、相互発信、積極的、主体的な活動ができなければ活用できない。

 ソーシャルネットワーク(Social Network)とは何だろう。言葉から、ネットワークは、コンピュータ同士をつなぎ、データリンクを行なう通信網を意味し、ソーシャルとは直訳すれば「社会」や「社交的」という意味。 つまり、ソーシャルネットワークとは、「社交的なネットワーク」と表現できる。そして、それはあるコミュニティが提供するサービスとして成り立つ。もともと欧米では「社交界」とは、若者が紳士淑女の仲間としてデビューするコミュニティであり、「社会」と同義であり、今なら「市民の集まり」と言い換えられるかも知れない。ソーシャルネットワークというコミュニティサービスでは、「社交的」という言葉が意味する、人と人とのつながりを提供する。ソーシャルネットワークサービスでは、参加者を管理し、名前や職業、趣味などのプロフィールを登録し、自分がどのような人物なのかを公開することによって、信頼をもった交流を始めることが可能であり、インターネット社会の問題になる「匿名性」を排除する。従来は、インターネットで個人情報を公開するデメリットばかりが注目されてきたが、ソーシャルネットワークにより非匿名性のメリットを引き出す環境が整ったともいえるだろう。
 ソーシャルネットワークサービスによって、新しい市民の場へデビューすることで、新しい「出会い」や「信頼」関係を築くことができる。それを紹介制度や会員制度、安心・安全な人物同士の仲間作りをインターネットで作ることを目指している。バーチャルなシステムを使ってリアルな人間関係をどう作っていけるのか。市民活動支援には大事なシステムになるのかも知れない。このことによって団塊の世代が、若い頃に挫折した「世の中を変える」主体的な新市民として、再び地域社会に登場することを期待しよう。
 皆様のご意見をお待ちしています。(Y)

     
埼玉大学の先生や市会議員さんたちも交えての講座も活発。16年度には国の助成金でまちづくり市民コンサルタント養成講座も開かれた。

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