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今年度最後の特集にあたって
先日、あるラジオ番組(ナック5)の中高生のアンケートで「政治に関心があるか?」という問いに、予想外に75%がYESと答えていた。ホリエモン事件や民主党のメール事件でこどもたちにも政治が身近に感じているのであろうか。善悪は別として経済や政治に関心を持たせる話題を提供したことは間違いない。今のこどもたちが自分の将来を気にしていることは決して悪いことではないだろう。大人が考えているより、こどもたちの方が案外健全に育っているのかも知れない
一方、したり顔して冒険をしないのが大人という訳でもない。何も変えない組織は死んでいくだけでもある。また「中立・客観・公正」主義はマスコミの常識だが、行き過ぎのような取材活動や禁止用語の建前論が横行している。それが自分は「正義」だと居直るお題目になっていないか。行政も「中立」を強調するあまり、政治や宗教に対して過度に反応する場合が多い。政治家や政治的な問題をダブー視して、かえって情報不足にすることで現実的な問題解決に政治が追いつかず、特に地方政治において議員がおいてきぼりになったり、議会が陳腐化しているような面がある気がするのは私だけだろうか。議員も市職員も同じ「市民」として協働しなければ、道州制が議論される地域分権の新しい「公共」を創造することは難しい。その模索なくして新しいコミュニティは形成されないだろう。
今回の特集は、恐らく私が担当する最後となるので、またまた論文調で難しいとお叱りがあるかも知れないが、市民活動と政治について考えてみようと思う。

戸田市では市と社協、市民活動団体との協働で今年の7月に市民活動支援・ボランティアセンターを市役所の車庫に開設する。建物工事もほぼ完成している。市民活動支援の拠点になるか。
「市民」の「活動」
政治活動や政治運動、市民運動と活動の違いや意味するところは何だろうか? 乱暴に言えば「活動」は個人の自発性やテリトリーに比重があり、「運動」はどこかの目標に向かっての流れみたいなものと分けられるのだろうか。そして、「政治」は権力をめぐって集中するのに対して、「市民」のかもし出す雰囲気は自由な行動にあるような気がする。その違いは民主主義の広がりに関係するのだろうか。私の恩師の一人でもある亡くなった政治学者の高畠通敏さんが事務局をしていた「声なき声の会」は、60年安保のときに若い女性たちが3人、「誰デモ入れる声なき声の会」と書かれた横幕を手にして歩き始めたのがスタートであった。党や労組の動員ではなく、普通の人々が自分の意思で参加するという市民運動のスタートと言える。その後、高畠さんをはじめ、作家の鶴見俊輔さん、小田実さん、開高健さん、小中陽太郎さんなどが中心で続いた「『ベトナムに平和を!』市民連合」が、参加も発言も自由という市民運動のスタイルを確立した。(奇しくも最近の朝日新聞でも記事が組まれている。記事の中で「鶴見と高畠が支えた『声なき声の会』が市民運動の芽だとすれば、べ平連は緑したたる若木に育った」と評価している。3/1夕刊)
小田実さんは「私たちはふつうの市民です。」「過激なことを言う人もマイルドなことを言う人もいた。いいんだよ、それで。ベトナムはベトナム人の手で、という一点でつながって動けばいい。人の言うことに文句をつけるな。言いだしべえが必ずやれ。それが大事なんだよ」という市民活動の原則を教えている。与えられた憲法であれ、戦争を放棄し、徴兵制や軍隊という「そんな愚劣で野蛮な制度はもうとっくの昔にかなぐり捨てたのだ」といった考えが、最近の「九条の会」にもつながっているのだろうか。ともかくこうした市民運動の歴史は、従来の政治的な運動でない「市民」スタイルを作ったことは確かだ。
「市民」とは戸田市の住民という意味ではない
私自身も80年代の公害問題、住民問題などを通じて先輩たちの「市民」としてのスタンスやスタイルを学んだ。『脱学校化』『脱病院化』などの著者であるイバン・イリイチ氏を中心に、学者や研究者と市民が協働で現代文明を考えようという「フォーラム人類の希望」の事務局を担当していた頃、代表をしていた東大の名誉教授で沖縄国際大の地域主義や「エコノミーとエコロジー」で有名な玉野井芳
朗さんと本を出すにあたって英語の「People」を日本語の「人民・民衆・市民・人類」のどう訳すか話し合ったことがある。国内問題や政治とのかかわりでは「市民」なのだが、学者や研究者が科学、テクノロジーから単に「ヒト・人」という視点を出した。だが、環境問題や自然保護の議論をしている中では、テクニカルすぎてインパクトに欠ける。第三世界とのつながりや「類的な共通性」、グローバルな視点も考えて結局「人類」という言葉でということに落ち着いたが、当時も外国人の学者が世界連邦制の話題から「世界市民・地球市民」という提案をしていたのを思い出す。つまり「市民」という言葉には、政策として現実的に少しでも前進する、コミュニティ改革を基本と考える「政治的」な人間の活動を前提とする響きがあるのではないだろうか。民主主義の成熟した西欧人には、お題目の「類概念」より、水や空気を共有資源(コモンズ)とする、具体的な行動や活動を重視するという活力が感じられた。
このとき新評論から出版した本を、当時、私は戸田の塾で教え子たちに紹介した。本は、それを契機に「プラグを抜く」シリーズとなって数冊が出版された。たまたまその後、東大や早稲田、慶応に進んだ優秀な教え子たちだったのだが、全く関心を示さなかった中で、戸田中から浦高、東工大の大学院を経て日産の研究所にいったNくんという男の子が1冊買ってくれたことを思い出す。いまや彼らが30代となって、親父の会や埼京戦隊ドテレンジャーに変身して活躍している時代なのだ。
市議会と行政評価、
さて、脱線してしまったが、言いたいことは、そもそも「市民」というときには、前提として具体的な地域共同体を動かすという意味で「政治的」なのではないかということだ。戸田の市政が市民参画やパブリックコメントを求めたり、市民活動推進委員会や懇話会を多用する手法は、そのことを、今の市長が理解していると言えるのではないだろうか。確かに従来の政治の手法は、口利きや利権であったり、あるときは官僚任せの名誉職でもよかった。もともと議院内閣制の国会議員と異なり、直接投票の「首長(市長や県知事)」と議会の二重政治という地方政治での議員の役割が難しいところがある。
現在の市会議員の大きな役割は、行政や市長の施策、政策のチェック機関にあるのだろう。民間では当たり前のPDCA(Pプラン=計画・立案、Dドゥ=実行、Cチェック=監査・確認、Aアクション=修正行動)を行政も取り入れ始め、事務事業評価などにも取り組んでいるが、行政には後半のCAがなじまないゆえに、施策が時代遅れでも止められなかったり、スピードがなく陳腐化してしまう事例に事欠かない。政治家がきちんと事務局案をチェックし、時代に対応すべく修正する力が必要なのだと思う。それができないならば市民オンブズマン制度のようなものが求められるだろう。事務事業を評価するよりももっと根本的な政策評価や施策事業評価をどう市民ができるか、市民の側にももっとシンクタンクとしての役割を担える手法を確立する必要が出てくる。そのためにも市民研究所やコミュニティ・カレッジのような生涯学習の重要性もあるのだろう。

NPO法人が作った「お休み処」での防災イベントに消防署も協力。子どものボランティア団体や福祉団体との協働開催を実現している。
より個人的な「市民活動」
「市民運動」から「市民活動」は、運動体という集団主義からバラバラな個人的なものへと多様化されている。より個人の自発性や行動の自由を「市民」に与えている。しかし、あからさまに政治にものを言った「市民運動」から、定義上「市民活動」といえるのかとされる趣味や自己啓発の文化講座までの幅の中で、実は「市民」という言葉が提示する問題は、どこか根っこはつながっていると思っている。その意味で、一見生涯教育のサークル活動に過ぎないようでも、コミュニティに無関係な自己実現はないのであって、「運動」のような集団性がないように見えるだけであっても、「活動」そのものは、あるスタイルや方向性を持っているだろう。IT化で市民活動は大きく変化しようとしている。それは全く無関係なように見えていても、「リンク」という「出会い」を自然発生的に生みだし、ソーシャル(社会的)ネットワークを形成する。まさに「eデモクラシー」の時代はそこまで来ているのだ。「市民活動」は個人個人の多様性をやさしくネットワークする寛容性や柔軟性を与える。お仕着せの政治運動や市民運動より、市民活動は個人の自由を基本としていることで進化しているが、逆説的だが、それはいつでも内発的な市民運動や政治に転換するパワーも持つことができるはずだ。つまり、自分たちの生きること活動が社会的な広がりや意味を持つことにおいてある方向へと再結集される。そうでなければ地域はよくならないし、活性化など絵に描いた餅に過ぎない。道路を整備し、商店街を作り、まちづくりを進めるためには政治家の決断や行政の本気度、行動力がなければ、電柱1本なくならないし、どぶ川はきれいにならない。地球の温暖化も止められないことになる。
企業市民も加えた総力戦に
同時に経済の活性化なくして地域の活性化もないという意味で、地域の「企業市民」の社会的責任論、そのステークホルダー(株主、従業員、顧客、周辺住民など全ての関係者)へのアプローチを忘れてはならないことを付け加えておきたい。従来の地方政治があまりに住民の福祉や教育といった分配型経営に力点があり過ぎたとも言えるが、これからは地域での自主的な経済の活性化や循環型のコミュニティビジネスに着目しなければ、市民活動の充実も難しいばかりか地域間競争に負けてしまいかねない。これからは「地域社会経営」が重要になるのだ。市民活動はある種の経済活動でもあり、その点においても企業とも連携できるし、まちづくりに欠かせない戦力、仲間として受け入れなければならない。
その意味でも「市民活動」という視点は、政治、行政、企業を巻き込んだ地域再生の鍵になるだろう。待ったなしの環境破壊や社会の荒廃に対し、総力戦で取り組まなければならない。そのための地域資源、人財を発掘しなければならない。それらの広範囲の「市民活動」を結集して、リタイヤした中高年を戦力化してのボランティアのまち、SOHO型の職住近接のまちづくりのビジョンが必要だと思う。21世紀は、戸田市にとって市民活動が大きな財産になるようなまちづくりをみんなで取り組んでいけたらと思う。そのためにも大いに政治にも関心をもとう。市民活動が支える地域経営は、新しい公共経営という点において、新しい政治の問題に他ならない。戸田市が中心市街地もなく、景観もよくないとしても、人と人のつながり、市民活動のしやすい、環境にもやさしい「パートナーシップ」のまちづくりを進める「ふるさと」になっていくことを願っている。いつか理想のまちづくりが実現することを夢見ている。そして、これからもそうした市民活動推進や支援ができるサイトとして発展していければと念じている。(Y)

ボーイスカウトや子どもたちの街を知るイベントなどを通じて戸田市が好きになる、作り上げる「ふるさと」へと市民活動による「市民」育成事業も、将来の街づくりには欠かせない。
※新年度の特集からは、取材を中心とした市内の市民活動を紹介する記事にしたいと思います。題材、ご意見をどうぞお寄せください。
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