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日本ボランティア学会代表の栗原彬さん
恩師の古希を祝う会があり、久しぶりに記念講義を聴き、酒宴に参加し、戸田の市民活動やボランティアの話をしてきた。恩師とは水俣と大本教をライフワークに「やさしさのゆくへ」という青年のアイデンティティ論で有名な栗原彬さんだ。彼は日本ボランティア学会の代表でもある。彼の講義、そして、不勉強でまだ読んでいなかった近著『「存在の現れ」の政治―水俣という思想』(以文社)で再度市民活動が目指すものを考えさせられた。
市民活動のゆくえ
今回の講義は「現代のシステム政治の中で市民はどこに立つのか」という視点で、最近の市民活動を分析してくれた。日本の戦後は、世界的なグローバリズムの一員としての歴史であり、第1期が60年代のケインズ的福祉国家、経済成長と完全雇用・福祉政策、つまり、いい悪いは別として官僚主導の所得再配分、福祉の受給者化が進んだ時代。第2期が80年代の新自由主義の政治。レーガン、サッチャー、中曽根政権から小泉政権に至る市場原理、競争原理、自己責任と優勝劣敗、格差拡大、労組解体、コミュニティ解体と小さな政府論。そして、第3期が90年代からの第3の道という「政府をより広範な市民活動を促す触媒へつくり変える」(クリントンのNew
Democrats宣言1996)方向だ。翌年のイギリスのブレア首相の宣言も「新しい公共」を。また、「旧式の社会民主主義と新自由主義を超えて、政府主導下に、市民権の尊重とコミュニティの再生を結びつけ、アクティブな市民社会をつくる」『第3の道』を唱えたアンソニー・ギデンス。アメリカ合衆国はさらに2001年、ブッシュが「ボランティアとしての市民」という理念を政策の基本に、「市場を活性化させるために、教育にサービス・ラーニングのプログラムを導入して、衰退した社会資本を再生させよ(ロバート・パットナム)」という戦略、すなわち、国家が介入して、ボランティア市民を養成し、地域統合とネオリベラルな「新保守主義」の推進に動員するという方向を示す。もちろん、それぞれの時代は重なり、現在の財政破綻する地方自治体が、合併したり、民間主導(PFI)や指定管理者制度を導入するなど、日本でも盛んに市民と行政の「協働」事業が進められている。その結果、日本においてもボランティア・市民活動のNPO法人化と序列化、行政の下請け化など、第3の道の問題、課題が出てきていたが、グローバリゼーションの中で失われていくものの多さを、私自身見失っていた気がする。むしろ、市民として第3の道を是としていただけに目から鱗が落ちる思いだった。
水俣と政治
その原点は「水俣」の読み返しであり、「森永ミルク事件」の歴史からの教訓なのだろう。「水俣」の歴史で第1の生産力時代、生産量=幸福の増大という図式の中での現代損害賠償論が生まれた。すなわち「最大多数の最大幸福」追求のために「多少の犠牲はやむを得ない」という公論である。被害者達はこれに対して自主交渉から「立ち上がる存在」という人間の尊厳を問う。その後、弁護士同士の代行論争を経て、政治的和解、結果的には貧弱な内容の「損害補償」しか勝ち取れないが、その中で押し付けられた「水俣病患者」というアイデンティティ、その「土俵」そのものから離脱する被害者達が生まれる。彼らはその過程で被害者と加害者、原告と被告という二項対立を超える課題を見出す。彼らは「自分とは何か」を問うことで、自分自身の中のチッソ的なもの、近代的な人間としての、被害者、加害者を越えて「課題責任の共有」を提案していく。それは「水俣」を作り上げる政治システムそのものに立ち向かう市民の立場の表明でもある。それを栗原彬は「個人が担う政治」「自己決定、存在の現れの政治」と呼ぶ。言い直せば主体性が希薄化し、人間が道具化する流れの中で「人間を手段にするな(カント)」と言っている。あるいはフーコーの「バイオポリティックス(政治が作る原料としての人間)」、つまり「システムに合致する人間」を作る政治から「人間を取り戻す」手法を考えようというのである。
森永ミルク事件が教えること
「森永ミルク中毒事件」はもっと簡単な実例となるかも知れない。経緯は省略するとして、最近の雪印や三菱など同様のメーカー、企業の責任。当然、それが端緒だが、その後の静岡県知事の「措置を講じない」過失、自治体の犯罪。厚生省(当時)の判断の先延ばし、決断の遅れ。疑いに警告を発しない、情報を公表しなかった医師の責任。5人委員会という専門家の責任。それを広げ、「にせ患者」呼ばわりさせたマスコミの責任。乗せられて差別し、苦しむ人たちを一層苦しめた一般市民。それぞれが責任を明確にしないまま、全体としての無責任。この事件は「それぞれに立つ立場で市民がなすべきことをしたのか?」と私たちに問いかける。そうした中で被害者宅を一軒一軒訪ねた中坊公平弁護士のような「まなざし」がせめてもの救いだった。少数だが、少数の苦しむ人たちを忘れない人がいる。森永ミルク事件は起こるべくして起き、そしてシステム化される中で忘れ去られる。その政治システムは、何も解決されていないのだ。戦争を誰も止められなかった時代の空気を感じる。その意味で今は「戦前」なのかも知れない。
安全は誰にとってか
例えば、「安全」の問題で常に対処療法が繰り返される。いまやアメリカでは「ゲート・コミュニティ」という城壁に囲まれた(イスラエルのパレスチナ政策でもある)町が5万以上もあり、2000万人が暮らす。しかし、それは市民社会を分断し、敵対的な人々や憎悪を増幅させることで、社会全体をより荒廃させている。自分達が安全であろうとすることで、社会はより安全から遠ざかるという構造は、地球を船と考える環境問題が答えを出している。対処療法では解決しない。コンピューターのIT化での安全の問題も似ているだろう。あるいは、IT化はそのネットワーク機能を生かせずに、個人をより分断しつつ、コンピュータによって「貴方の嗜好はこれですよ」と自己選択の自由すら実のところ操作し始めている。一見、IT化で自分の好みや政治動向まで先取りしてくれて便利なようだが、実は、まさに「システムに合致する人間」が気づかないうちに生産させているのだ。これからの子どもが社会の脅威になる可能性もある。単なる世論操作どころではない。
見えないものを見る力
栗原彬は、これらに対して解決策とも言うべき根本的な、「市民活動」による「手法としての政治」に会えるヒントをくれている。しかし、今回の特集ではそれは長くなるので述べないでおこう。ただ言えることは、社会のマジョリティ(多数)の動向が現実に見えるものだとしても、それを「公論」や「公益」として量的な快楽計算をしていては、第3の道からは離脱できないことだけは確かなようだ。マイノリティ(少数)の存在にももうひとつの公益はある、という意味で「公益」の再定義が求められるはずだし、「最大多数の最大幸福」という理屈でなく、ガンジーや宮沢賢治が求めた、一見不可能なような「全ての人間の幸福」を求める政治だ。それはその存在そのものを受け入れるということ。そこから生まれる(質的な)「存在価値」を認める「親密性」、その人の存在、行動だ。それは市場社会で生き延びつつ育つ「しなやかさ」であり、「官」や「民」という二者択一でない「グレーゾーン」に生きる現実を見つめることから生まれるのだろう。彼はそれを「臨床的な生き方」という「ふつうの市民が生きる原点」だという。言い換えれば一見見えないようなものをしっかりと見続ける「まなざし」が大切だということだ。私たちの日常を見回すとこの「グレーゾーン」的な、いくつもの次元で、重層的に生き続ける原理がある。「やおよろずの神」の「寛容」であり、「ゆらぎ」ともいえるかも知れないが、こうした実在するはずの「公的決定の多層的な公共圏の構築」こそ、いま私たちが向かうべき市民活動の到達点なのではないだろうか。私たちはしっかりと目を見据えて見ていかなければならない。「本物」を見抜く目利きが必要な時代なのだ。(Y)
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