戸田市ボランティア・市民活動支援センターホームページ TOMATO特集文化・趣味・レクレーション文化趣味特集No.19『御鷹場の話(前編)』(R01.07.30)

文化趣味特集No.19『御鷹場の話(前編)』(R01.07.30)

公開日:2019年07月30日 最終更新日:2022年11月30日
 今は新幹線・埼京線が走り、マンションが林立する戸田が、江戸時代には徳川幕府の御鷹場だったと聞いたことがありますか。
 今回は、そんな戸田の江戸時代の顔の一つ 、御鷹場を見てみましょう。
 今は新幹線・埼京線が走り、マンションが林立する戸田が、江戸時代には徳川幕府の御鷹場だったと聞いたことがありますか。江戸時代に限らず、オリンピックのボート競技が行われた1964年でも、戸田には田んぼが多く、人家の少ない農村風景が多く見られました。今回は、そんな戸田の江戸時代の顔の一つ 、御鷹場を見てみましょう。
資料としては、「戸田市いまむかし」( 1989年、戸田市発行)と「将軍家の鷹場―戸田筋―」(2014年、戸回市立郷土博物館発行)があります。
 ※右イラスト=bingオンライン画像を引用いたしました。

「戸田市いまむかし」は、「江戸時代の戸田」の章の中で、「戸田市域の村々は 、江戸時代のはじめから将軍家の鷹場に指定され、さまざまな規制や負担が課せられていた。鷹場は、1686年(貞享3)に一時廃止になったが、1716年(享保元)に徳川吉宗が将軍職について江戸近郊が将軍家鷹場に指定され、鷹場が復活した。戸田の村々も1718年(享保3)には『戸田筋』としてほかの5筋(六郷筋・目黒筋・岩淵筋・中野筋・葛西筋)とともに整備された」と書いています。
 また、「将軍家の鷹場」によれば、飼いならした猛禽類の鷹(オオタカ ・ハヤブサなど)を使って狩りをする鷹狩は、洋の東西を問わず、かなり古い時代から行われていて、スポーツとしてだけではなく、「権威の象徴」として政治的に使われることも多かったとされ、鳥の中でも最強の一つである鷹を使い、持続的に鷹を捕獲、飼育、調教することに経済的、権力的力を必要とすることから、「鷹狩は支配者や支配者から許可された限られた人物や集団にしか許されない特別な行為とされてきた」と指摘しています。また、中国の「鷹匠の俑」のように日本でも「鷹狩の埴輪」が発見されており、万葉集に鷹狩の歌があること(大伴家持作)などから、古墳時代には行われていたと考えられるようです。
 ただ、日本で発見された鷹や鷹狩の埴輪は多くが関東地方で作られたと考えられていて 、鷹狩が大陸から半島経由で伝わったであろうが、西に製作例が少いのは不明だと書いています 。そして、江戸時代の鷹狩について、「徳川家康が鷹狩を好んだことはよく知られている」とした上で、「二代将軍の秀忠 、三代将軍の家光も鷹狩をよく行い、家光は鷹場の整備を進めたが、四代の家綱はあまり鷹狩をせず 、五代の綱吉は鷹狩の役職を廃止した。

 その後、八代の吉宗は鷹場を復活し、御拳場(御鷹場)六筋を整備して鳥見役(鷹場の管理役)を置いた」などと述べ、「大名から将軍に対する鷹の献上や将軍が鷹狩で獲った獲物を下賜、将軍から朝廷対する鶴の献上など」 によって、「江戸幕府は鷹狩という行為や鷹、その獲物を儀礼的・政治的に利用してきた」と指摘しています。また、家康の鷹狩については、家康自筆の「道中宿付」に「(慶長17年間10月)9日・江戸、18 日・戸田、22日・川越、27日・忍(現行田市)」などと鷹狩の日程が書かれています 。こうした鷹狩は、獲物をとることと併せ、軍事訓練や民情視察も目的だったといわれています。
 鷹狩に伴って受ける規制・負担について、村々では「御鷹場御法度手形之事」として御鷹場役所(鷹場の管理をする役所)に証文を提出させられました。これには名主が村人に規制内容を間違いなく周知し、遵守することを記載し、押印しでありました。

内容を見ると・・
 ①御成道(将軍の通路)はもちろん、脇道や橋も鳥見衆の指示どおりに造成し、竹木の
  枝も下ろして通行に支障がないようにする 
 ②鷹場では許可のない鷹はもちろん、将軍の鷹であっても鳥見衆の案内がない限りは使
  ってはならない 
 ③鷹場内の鳥は追い立て てはいけない 
 ④餌鳥札(鑑札)を持たない餌差は必ず改める。たとえ鑑札を持っていても雁・鴨以上
  の大鳥はもちろん、鷺・けり・鶴・川鳥・雲雀などは一切とらせない。
  また、雁・鴨がいるうちは、池・沼・川・野田に網やもち縄を使わせない。もちろ
  ん、御法度の烏の巣子(雛)もとらせない 
 ⑤旗本・代官、その他誰であっても御法度の烏はもちろん、小鳥であってもとらせな
  い。もし、弓 ・鉄砲を携えた者がいたならば、改めて留置し注進する 
 ⑥村に身元不明な浪人・ 出家、その他不審な者が来た場合は、よく取調べ宿泊させな
  いようにし、怪しいものは置かない。また、どのような埋由があっても悪事を頼むよ
  うな者はすぐに注進する 
 ⑦新寺・新社、また野田に新屋敷は建てない7か条で、鳥の殺生だけでなく、治安の取
  締りや家屋敷の造成など、人々の生活に直結した内容になっています。村人への「べ
  からず集」と言えます。
 また、荒川の川筋に面していた市内の村では、上記手形のほかに次の3か条からなる手形も提出しています。
 ①荒川通においては誰であっても烏殺生人は留置し、注進する 
 ②荒川において烏殺生道具を積んだ船を見た場合は、同様に留置し注進する
 ③怪しい船を見かけたならば詮議の上注進する
  となっており、こちらも旗本・代官・寺社などの枠組みを超えた取締りの実態を示し
  ています 。

 このような規制のほか、鷹場の村々は、鷹狩の際の人足を出したり、御鷹のための「えびずるむし」、「けらむし」、よもぎ、はこべ、城中の蚊遣り用ともいわれる杉の葉を納めさせられたりしました。農繁期でも日限を切って提出命令が来るのですから、村民は大変な負担だったことでしょう。初期は農民が自ら採取していましたが、そのうちお金を出して他所の村に任せていたこともあるようです。

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【文責:≪戸田歴史ガイドの会≫ 山中 勇夫】
 ★団体ページは下記URLをご覧ください。
  http://genki365.net/gnkt01/mypage/index.php?gid=G0000122

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  掲載:TOMATOホームページ事務局(編集S.Y/校正M.Y)(2019/07/30)

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